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2011/05/31

観想的生と活動的生について

 ところで、わたしたちがこの世界に生まれてきた目的は、何だろうか。エックハルトは言う、「わたしたちが時間の内に置かれたのは、時間の内における知性的な活動を通じて、神に近づき、神に似たものになるためである」と。つまり、わたしたちは、この世界において、神に向かって昇り行き、日々神の御姿に変えられて行くのである。
 どのようにしてであろうか。エックハルトは、「魂は、神にいたる三つの道を持っている」と言う。それによると、第一の道とは、多種多様な生業を通じて、燃えさかる愛をもって、全被造物の中で神を探すことを言う。第二の道においては。人は自分と一切の事物との上に高く遠く、意志も説ち切り、像によることもなく上りゆく、しかしいまだ本質的な永遠性は手に入れていない。そして第三の道は、「道」と呼ばれはするけれども、それは同時に「家郷」に在ることであって、神自身の有において直接に神を見ること」であるという。
 以上は、人間をとりまく環境についてであるが、これらに対する人の生き方に、「観想的生と活動的生」があるとまた彼は言うのである。この「観想的生」には、聖書に出てくるマルタとマリアの内のマリアの生き方が当てはまる。それは、求める思いは人一倍持っているが、そのことが自分にとってなくてはならない道、つまり生業とはなっていないような人である。そのような人は、自分の状態や方向に対する必然性を持っておらず、むしろ何ものとも分からぬものに思い憧れ、なにものともわからぬものを願っているのである。そこでエックハルトによれば、「魂が一切の生業をもたず、純粋にして単純に永遠の周辺に境を接するまでに高く上げられている場合、もし何かが手立てとしてその間に入り込むことがあるならば、この魂は悲しみにくれ、その高みに歓喜に満ちてとどまることはもうできなくなってしまう」という。つまりその人にとっては、向上のための何か具体的な手だては、自分が現実に関わりを持たなければならない煩わしいものに過ぎず、その人の憧憬を壊すものでしかないのである。「それに対してマルタは、成熟した堅固な徳とわずらわされることのない心の内に立って、すべての事物に妨げられずにいた。その秘密はなんであろうか。
 「ここで徳について学んでほしい」とエックハルトは言う。彼によれば、徳のある生活の始めは、「自分の意志を神の内で断念することである。それには、人の持つ粗野な感性的意志が知性的意志によって制御され、ついに神の意志のみを満たそうとする不動なものにまで高められならなければならない。しかし、この永遠の意志へ人間の力で到達することはできない。それは、神から来るのであり、それは、神の主権に属するゆえに、人にはただ準備して待つことだけがある。神が私たちの業と思いを受け入れて下さるように。エックハルトは語る、「これらすべてが満たされると、神は魂の根底にさらにもう一つの意思を置く。それは聖霊の愛による掟をともなう『永遠なる意思』である。すると魂は、『主よ、あなたの永遠なる意思のなるごとく、わたしにもなさせたまえ』と語るのである。魂がこのような仕方で、先に述べたことを満たし、それを神が気に入ると、愛する父は魂の内に父の永遠なる言葉を語るのである」と。
 それは、神の主権によることであるが、その主権を発動なさる神は、生きた義と愛の神であり、私たちの心の思いを知り、切なる願いを聞かれ、献身を喜び受け入れられる方なのである。エックハルトは祈る、「わたしたちが真実なる徳の修練において、真にキリストにならう者となるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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