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2011/05/26

像を介さぬ認識について

 「神は善きものなどではない」とエックハルトは言う。これは、いったいどういう意味だろうか。そればかりか彼は、「神は賢いと言うならば、それは真実ではない。わたしが神より賢い」とも言う。これらのことの意図は、やはり彼の言葉であるところの次により理解される。すなわち、「わたしたちが第一原因について認識し語るものは、第一原因そのものについてではなく、むしろわたしたち自身のことである。なぜならば、第一原因はすべての言葉も理解も超えたものだからである」と。
 つまり、もし私たちが第一原因であるところの神について論述し、「神は云々」と言った場合、そこで想定されているのは、実は「神」ではなく、むしろ「私たちの想像した神」にすぎないということである。そして、私たちが想像するもの、考え出すものは、それが何であっても、私たち自身より大きなものではあり得ない。それは、つねに「わたし」という、考える主体、いわば「概念の創造者」に従属したものとなる。そこで、「わたしが神より賢い」ということになるのである。
 このように、私が神に従おうとして、そのために神と関係を持とうとし、自分の内に神の概念を設定した時点で、私はすでに「神」ならぬ「神の概念」と向き合うことになる。しかしそれは、私よりも小さい神の「像」でしかないのである。
 以上のことを解決するためには、私はまず、自分が作りだした、その不完全な神の像を捨て去らなければならない。そして、神に対してどのような像も用意してはならないのである。つまり、私は神を「像を介さずに」認識する必要があるのである。
 それでは、いったいどのようにすれば良いのだろうか。エックハルトは語る、「あなたは、あなたの自己からすっかり離れ、神の自己に溶け入り、あなたの自己が神の自己の内で完全にひとつの自己となるようにしなければならない」と。つまり「像を介さぬ認識」とは、そこには光のような媒介が存在しないのであるから、それはすなわちこの形態しかあり得ないのである。そのためには、あなたの心が根本的に新たにされる必要がある。そして、神があなたに与えられた能力に目を向ける必要がある。
 エックハルトは語る、「神は、精神とも心とも呼ばれる魂の最初の領域において、魂の有と共に、ひとつの力をつくった。この力は、魂と父との等しさを神性の流出を通じて創り出すのである」と。魂は、神から様々なものを受け取りはするのであるが、それは光によるのでも、まして手渡しによるものでもあり得ない。つまり、そこには伝達や搬送という行為というか現象自体が存在しないのである。なぜなら、そこにな未知も距離もないのだから。そして、そのような場において、神から何かを受け取るのが、エックハルトが語る「ひとつの力」なのである。それは、わたし個人の力なのであり、まさに「神性の流出を通じて、魂と神との等しさを創り出す」のであり、これ以外に方法はない。というのは、あなたという存在は、完全に閉じたひとつの宇宙であり、そのようなあなたを神は、永遠の愛で愛されるのである。それは、あなたが真の愛を知るためである。「真の愛」それは、与えることも受け取ることもない。エックハルトは言う、「神とわたしとがひとつの有となり、ひとつの有であり、しかもこのような有のあり方にあって永遠にひとつのわざを働くまでに、完全に一にならなければならない」と。そのときあなたは、彼が言うように、神をひとつの「非神」として、ひとつの「非精神」として、ひとつの「非位格」として、さらに、一切の二元性から切り離されたひとつの純粋で透明で澄み切った一なるものとして認識する。そして、わたしたちはと言えば、エックハルトによれば、「この一なるもののうちで、有から無へと永遠に沈みゆかなければならないのである。そうなるように、神がわたしたちを助けて下さるように。アーメン」。

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主語と述語の逆転

 もしかしたらヘブル語は、主語と述語の区別が明確でないのかも知れない。それを読み手が判断しなければならないとしたら。しっかりとした信仰と理解力を持っていなければ、聖書の翻訳はできないのだろう。それにしても、箴言とか詩編とか伝道の書で新改訳聖書と新共同訳聖書を読み比べてみると、ずいぶんたくさんの場所で、主語と述語の逆転が起こっていることに気づく。これは、どちらが本当というか、適切なものなのだろうか。私は、新共同訳の方が分かりやすく、信仰的だと思うのだが。
 下の事例は、ほんの一部に過ぎない。全部挙げたら、大変な量になるに違いない。そんなこと一々やってられないのだが、それをやってみたくなるほどに、大きな較差が気になる。この逆転がたびたび起こるので、新改訳聖書の箴言、詩編、伝道の書は、非常に難解で、砂を噛むようなものになっているようだ。

箴言 10:4
【新改訳】
 無精者の手は人を貧乏にし、
勤勉な者の手は人を富ます。
【新共同訳】
手のひらに欺きがあれば貧乏になる。
勤勉な人の手は富をもたらす。

箴言 10:16
【新改訳】
正しい者の報酬はいのち。
悪者の収穫は罪。
【新共同訳】
神に従う人の収入は生活を支えるため
神に逆らう者の稼ぎは罪のため。

箴言 10:18
【新改訳】
憎しみを隠す者は偽りのくちびるを持ち、
そしりを口に出す者は愚かな者である。
【新共同訳】
うそを言う唇は憎しみを隠している。
愚か者は悪口を言う。

箴言 10:19
【新改訳】
ことば数が多いところには、
そむきの罪がつきもの。
自分のくちびるを制する者は思慮がある。
【新共同訳】
口数が多ければ罪は避けえない。
唇を制すれば成功する。

箴言 10:25
【新改訳】
つむじ風が過ぎ去るとき、悪者はいなくなるが、
正しい者は永遠の礎である。
【新共同訳】
神に逆らう者はつむじ風の過ぎるように消える。
神に従う人はとこしえの礎。

箴言 10:28
【新改訳】
正しい者の望みは喜びであり、
悪者の期待は消えうせる。
【新共同訳】
神に従う人は待ち望んで喜びを得る。
神に逆らう者は期待しても裏切られる。

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