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2011/05/25

三つの闇について

 「求める価値のある一切のもののもつ味わいは、光によって魂の内へともたらされなければならない」とエックハルトは語る。魂は、自分とすべての事物を「像」により認識するのであり、そのために光が必要なのである。しかし、「認識」と一言で言っても、魂の内には、五感を含めて様々な種類の認識が存在する。エックハルトは、ここで3段階の認識について語っている。それらは、順を追って高くなるものであり、人は真理に対する、より高次の認識に至るように招かれているのである。
 どのようにして、人の認識は、高められて行くのだろうか。それにはまず、現在持っている認識力に練達することである。それにより、より高い段階の真理に対する洞察が得られる。しかし、その新たな認識は、古い認識とは形態が根本的に異なっている。その上、魂は一度に二つの事柄を認識することはできない。そこで、新しい形態の認識力を働かせるためには、どうしても古い形態の認識力の行使を断念せざるを得ないことになる。そして、古い形態の認識力の行使を断念したそのとき、当然ながらその認識の像も消滅することになる。つまり、新しい認識力がそれに対応する新しい認識の光を受け取るようになるとき、古い認識は、光から闇へと変わるのである。
 エックハルトによれば。もっとも低次の認識とは、「身体と結びついたものであり、たとえば目がものを見て、その像を受け入れるように、像を受けとる」ような認識である。その次の段階の認識は、「精神的なものであるが、身体的事物からなおも像を受け取る」。最後の段階の認識は、「精神における内的なものであり、像も写しもなしに認識する。この認識は天使にふさわしいものである」と彼は言う。このように、魂が現状よりもさらに高い認識に至るとき、それよりも低い従来の認識は、光から闇へと変わるのである。そこで前述のように、三つの認識のレベルを想定するとき、そこにおのずと、二つの克服された次元の認識に対応した、二つの闇が想定されて来るのである。それでは、エックハルトの言うところの三つ目の闇とは、いったい何だろうか。それは実は、三つ目の認識そのものに他ならない。というのは、この認識は、最高次のものであり、ここにおいては魂は、「像も写しも無しに認識する」からである。像も写しも無いところ、そこには光もまた必要ないのであり、神は、ここにおいて、ご自身を魂に、像も写しもなく与えるとエックハルトは言うのである。
 そこで、この認識においては、未知も距離も存在しない。つまりそれは、やがて受け取るとか、次第に獲得するということはなく、すべてがすでに獲得されているような認識なのである。ここにおいては、今持っているものは、どこからか得たのではなく、すでに持っていたものであり、これから得るようなものは、何も存在しない。もし、下位の段階の認識において、獲得が目指されていたもの、憧れていたものがあれば、この段階の認識においては、それらのすべてがすでに獲得されているのである。それらは、どこから獲得されたのであろうか。それは、神が魂に近いというそのことからである。それゆえ、この段階の認識においては、新たに認識すべきものは何もなく、ただすべてのものを超え出て、この段階の認識に到ることこそが必要なことのすべてなのである。そしてそれは、私たちの魂を導かれる主イエスと共に、高い山の頂に立つことであり、そのようにして、神の内にある小さきものから大きなものに至までの何もかもすべてを神の独り子の内で認識することなのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが神以外のすべてのものを超え出るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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