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2011/05/21

空しい訓示と知恵の言葉の違い

 新改訳聖書で箴言を読んでたとき、なんだかそれが棚の上に飾られた鏡餅のように感じられた。こんなものは、何の価値もないと思っていた。しかし、新共同訳聖書で読んだときに、そのすばらしい価値が分かった。そして、これは、命へ導く生きた言葉だと実感した。
 この違いは、どこからくるのだろうか。それはたぶん、新改訳聖書の訳者は、原語に忠実に訳そうと思うあまり、箴言の内容を自分の言葉で表現できていないのではないかと思う。その結果、読む者に神のすばらしい知恵を取り継ぎたいという願いが希薄になってしまっているのだと思う。しかし、もし彼が、神への真実な愛を持っているなら、そのように振舞うことなど考えられないと私には思えるのだ。

 次の箇所は、箴言の最初であり、知者がこれから神の知恵を語りだそうというところである。だから、聞くものに対して、まずは肯定的な表現で、学びへいざなうことがどうしても求められると思う。しかし、なんと、なんと、新改訳聖書は、ここで、早くも神の冷酷な裁きを告げるのである。これはまったく、ありえないことであり、箴言全体の目的を見失っているとしか思えないのである。

箴言 1:24~26
【新改訳】
 わたしが呼んだのに、あなたがたは拒んだ。わたしは手を伸べたが、顧みる者はない。あなたがたはわたしのすべての忠告を無視し、わたしの叱責を受け入れなかった。それで、わたしも、あなたがたが災難に会うときに笑い、あなたがたを恐怖が襲うとき、あざけろう。恐怖があらしのようにあなたがたを襲うとき、災難がつむじ風のようにあなたがたを襲うとき、苦難と苦悩があなたがたの上に下るとき、そのとき、彼らはわたしを呼ぶが、わたしは答えない。わたしを捜し求めるが、彼らはわたしを見つけることができない。
【新共同訳】
 しかし、わたしが呼びかけても拒み、手を伸べても意に介せず、わたしの勧めをことごとくなおざりにし、懲らしめを受け入れないなら、あなたたちが災いに遭うとき、わたしは笑い、恐怖に襲われるとき、嘲笑うであろう。恐怖が嵐のように襲い、災いがつむじ風のように起こり、苦難と苦悩があなたたちを襲うとき。」そのときになって、彼らがわたしを呼んでもわたしは答えず、捜し求めても、わたしを見いだすことはできない。

 箴言は、無知な者を神への従順へ導くためであり、「神の知識を見いだ」させるというような大それたことを目論むものではない。また、「隠された宝」のような秘密を提供するものでもない。それは、神の言葉を「宝物を求めるように捜す」姿勢を教え、それが「神を知ることに到達する」ことであることを教えることなのである。

箴言 2:1~5
【新改訳】
 わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。
【新共同訳】
 わが子よ、わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるようにそれを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れることを悟り、神を知ることに到達するであろう。

 箴言を読むと、「正義と広義と公正と、すべての良い道筋を悟る」というのは、ちょっと言いすぎではないだろうか。それゆえ、箴言全体がなにかとても軽いものになってしまう。むしろ、「正義と裁きと公平はすべて幸いに導く」と悟ることが目指されているのであり、それがイエス・キリスト以前の人間に許された祝福への希望なのである。

箴言 2:7~9
【新改訳】
 彼は正しい者のために、すぐれた知性をたくわえ、正しく歩む者の盾となり、公義の小道を保ち、その聖徒たちの道を守る。そのとき、あなたは正義と公義と公正と、すべての良い道筋を悟る。
【新共同訳】
 主は正しい人のために力を、完全な道を歩く人のために盾を備えて、裁きの道を守り、主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。また、あなたは悟るであろう、正義と裁きと公平はすべて幸いに導く、と。

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