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2011/05/19

ヨシュア記は、どうもあちこち変だ

 英語には、「時制の一致」という概念があるが、日本語にそれを適応させると、おかしくなってしまうことがある。ヨシュアが過去のことを回想しているのは、モーセの話を「聞いた」ということであり、それからずっとアナク人は、そこの大きな町に住んでいるということである。

ヨシュア記 第14章12節

【新改訳】
14:12 どうか今、主があの日に約束されたこの山地を私に与えてください。あの日、あなたが聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々があったのです。主が私とともにいてくだされば、主が約束されたように、私は彼らを追い払うことができましょう。

【新共同訳】
14:12 どうか主があの時約束してくださったこの山地をわたしにください。あの時、あなたも聞いたように、そこにはアナク人がおり、城壁のある大きな町々がありますが、主がわたしと共にいてくださるなら、約束どおり、彼らを追い払えます。

 こちらの箇所でも、どうも意味の通らないことが書かれている。エフライムの山地が狭いのは、彼らが数の多い民であるからであり、また、彼らの敵が「鉄の戦車を持っている」ことは、彼らが彼らの敵を追い払う上で、障害となることであり、決して追い払うことの理由なのではない。

ヨシュア記 第17章15~18節

【新改訳】
17:15 ヨシュアは彼らに言った。「もしもあなたが数の多い民であるなら、ペリジ人やレファイム人の地の森に上って行って、そこを自分で切り開くがよい。エフライムの山地は、あなたには狭すぎるのだから。」
17:16 ヨセフ族は答えた。「山地は私どもには十分ではありません。それに、谷間の地に住んでいるカナン人も、ベテ・シェアンとそれに属する村落にいる者も、イズレエルの谷にいる者もみな、鉄の戦車を持っています。」
17:17 するとヨシュアは、ヨセフ家の者、エフライムとマナセにこう言った。「あなたは数の多い民で、大きな力を持っている。あなたは、ただ一つのくじによる割り当て地だけを持っていてはならない。
17:18 山地もあなたのものとしなければならない。それが森であっても、切り開いて、その終わる所まで、あなたのものとしなければならない。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いのだから、あなたは彼らを追い払わなければならないのだ。」

【新共同訳】
17:15 ヨシュアは答えた。「あなたの民の数が多くて、エフライムの山地が手狭なら、森林地帯に入って行き、ペリジ人やレファイム人の地域を開拓するがよい。」
17:16 ヨセフの子らが、「山地だけでは足りません。しかし平地に住むカナン人は、ベト・シェアンとその周辺村落の住民もイズレエル平野の住民も皆、鉄の戦車を持っています」と言うと、
17:17 ヨシュアはヨセフの家、すなわちエフライムとマナセに答えた。
「確かにあなたは数も多く、力も強い民となった。あなたの割り当ては、ただ一つのくじに限られてはならない。
17:18 山地は森林だが、開拓してことごとく自分のものにするがよい。カナン人は鉄の戦車を持っていて、強いかもしれないが、きっと追い出すことができよう。

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無である神について

 使徒パウロが復活の主イエスに出会ったとき、まばゆいほどの光が天から彼を射し照らした。そして「彼は地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」と使徒言行録に書かれている。これに対してエックハルトは言う、「パウロの目が何も見なかった正にそのときに、彼は神を一つの無として見たのである」と。つまり、人がもしこの世界において神を見ようとするならば、そのときはどうしても、神を「無」として見るのでなければならないと彼は言うのである。
 ああしかし、たとえ「見る」と言っても、「無を見る」とは、すなわち「何も見ないこと」に他ならないのではないのか。しかし実に、この経験によりパウロの人生は、180度変わってしまうのである。だからそこには、確かに何かが存在するのであり、パウロが天からの光に包まれて、神を一つの無として見たとき、彼はいわば神の片鱗をかいま見たとも言えよう。エックハルトは言う、「この光の内で魂の一切の力が高まったのである」と。つまり、私たちはこの世界において神を見ることができるのだが、そのためには、魂の持っている一切の力が高められる必要があるのである。それは、どのような修行によるのだろうか。また、それにはどのくらいの年月が必要なのだろうか。しかしそれは実は、修行というようなものではないのである。というのも、彼によれば、この世界においては、「神へはいかなる入り口もない」からである。
 エックハルトは語る、「これはたいへんにむずかしい問題であるが、つまり、まず捜し求めていく知性の内へと突入し、飛躍し、そしてこの捜し求めていく知性がこんどは、もはや捜し求めることのない知性の内へと、つまり、自分自身の内で純粋なひとつの光である知性の内へと飛躍しないかぎりは、天使といえどもこの思惟に関しては何も知ることはない」と。そして、さらに彼によれば、「恩寵や光が上昇したり増大したりすると理解している人は、まだ一度も神の内に来たことのない人である」と。つまりそれは、一瞬にして起こるしかないのであり、いつそれが起こるのかは誰にも分からない。それは、神の主権に属することなのである。
 しかし、このことについてエックハルトは、もう少し積極的なことを語る。すなわち、「魂が盲目となり、他のものは何も見えなくなったとき、魂は神を見るのである。このように必ずなるのである」と。つまり、いわば神の恩寵を自分に招き寄せるような何ものかがある。それが「自己放棄」であり、「魂が一なるものの内に入り来て、その内で自分自身を純粋に放棄するならば、そこで魂は無の内に神を見出すのである」と彼は語る。この「一なるもの」とは、すなわち「神」であり、エックハルトによれば、その神は、実は私たちの内部にいるのである。「神は真の光であり、魂にとってのよりどころであり、魂自身よりも魂に近くあるので、魂がすべての生成した事物から離れるならば、神が魂の内で輝き光を放つということは必ず起こらなくてはならないことなのである」と彼は語る。それゆえ、この神を、私たちはあり方なきあり方として、有なき有としてつかまなければならない。なぜならば神は、いかなるあり方もない形で私たちの内にいるからである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが、あり方も尺度も全くない認識の内にいたりつけるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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