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2011/05/11

三つの内なる貧しさについて

 キリストは、「精神において貧しき人たちは浄福である、天国はその人たちのものであるから」と語った。この「貧しい」とは、いかなる意味なのか。「それは、文字どおり何も持たないという意味である」とエックハルトは言う。しかし、一般的にはそうではなく、往々にして、「神の御心以外を求めない」というような意味に受け取られている傾向がある。しかしエックハルトは、「あなたが神の御心を求めている限り、あなたは貧しくはないし、キリストの言われた貧しさを所有してもいない」と言う。なぜであろうか。それは、あなたの考える献身は、主イエスから直接に命じられたものでない限り、それがたとえどのように熱心でまた熟考されたものであったとしても、神の前では、所詮愚かなことに過ぎないからである。だからいっそのこと、そのようなものは、きれいさっぱりと、どこかへ捨ててしまった方が良いのである。
 そして、ただ神を知ることだけを求めようか。ところがそれもエックハルトによれば、「精神の貧しさ」ではない。つまり、神についてさえも知ろうとしてはならないのである。というのは、彼によれば、あなたが神について知る必要のあることは、すべてあなた自身がすでに知っているのだから。つまり、神は訪ね求めるようなものではない。子供がその父を知ろうとして、何かを探求するだろうか。しかしあなたは、イエス・キリストの恵みにおいて、神の子として創造されたゆえに、あなたは、自分の内に父なる神を知っているのである。それゆえ、それ以上に新たなことを知ろうとするのは、愚かなことであるばかりか、返って父から離れることとなるのである。だからあなたは、神のために精神において貧しくなろうと思うなら、もはや神について何かを新たに知ろうとしてはならないのである。
 それでは、只々、神が私の内で働かれるように、すべてを空っぽにして、私自身をすっかり神に明け渡そうか。しかし実は、これもエックハルトによれば「精神の貧しさ」ではないのである。彼は言う、「神は、あなたが神のために場所を用意することさえも望んではおられない」と。つまり、「神の御心を望むこと」、「神について知ろうとすること」、「神のために自分を捧げること」、これら三つのことを神は望まれないし、またそれらのことは、キリストが語った「精神の貧しさ」でもないというのである。
 それでは、いったいどうすれば良いのか。それは、文字どおり、すべてを捨て、心を貧しくし、無一物になることである。そのときもはや、あなたからは何も新たには生まれない。あなたは、完全にこの世に対して死に、あなたはキリストと共に葬られたのである。そこには、文字どおり何の望みもない。ああしかし、ここに一つの驚くべきことがある。それは、あなた自身がキリストの死の様と等しくなるために、あなたは実に何ものも新たに獲得する必要はないということである。それが正にキリストの意図されたことであった。そしてまた、そのことこそがあなたが獲得しなければならないただ一つのことであり、あなたにそれを可能にして下さったのは、神なのである。それゆえあなたが、神の御心を成そうと意志せず、神を知ることを求めず、神のために自分を明け渡さずに、ただ、すべてを捨て去ることだけを求めるとき、あなたは、キリストの死の様と等しくなり、その結果、彼の復活の様と等しくなり、新しい命に生きるものとされるのである。そのとき、生まれながらの呪われるべきあなたという存在は消滅し、あなたはキリストの内に自己を見い出し、キリストと共に神との合一を体験するのである。

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