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2011/04/28

魂の内にある火花について

 エックハルトは、私たちに「知性的に生きること」を勧める。それは、一つの精神的な生き方ではあるが、この世の提供するような意味での精神的な生き方ではない。世の提供する精神的な生き方とは、すなわち「戦略」ということであり、それはいわゆる直接的な方法論に対して言われることである。つまりそれは、「急がば回れ」ということと、頭脳的な方法論によるのであり、その意図するところは、最適な施策への最短のアプローチである。しかし、エックハルトが提示するのは、そのような思惟的なものではない。というのは、思惟的なものは、それがどのように優れたものであったとしても、そこに、つねに間違えや騙される可能性が含まれているからである。
 それでは、エックハルトが勧める「知性的な生き方」とは、どういう生き方なのか。それはまず、この世界の事物から分かれ離れるということである。そして彼によると、それにより、魂の内にある一つの光が発動する。この光は、一つの不動なところを目指して飽くなき探求を続けているのだが、それ自体は不動なものではない。そして、この探求こそがエックハルトが勧める「知性的な生き方」なのである。それは、何のためなのか。それは、言うなれば、すべての事物の目的へと到達することである。そして、「すべての事物の目的」とは、「神」なのであるが、それは、いわゆる三位一体の神ではない。エックハルトによれば、三位一体にあっては、父なる神が御子を生み、父は、すべてのものを御子に与える。この授けの中で聖霊が流れ出る。そして、それらの体系は、万物の復興を目指しているのであるが、それゆえにそれは、万物の究極的な目的ではないのである。それでは、究極的な目的とはなにか。それは、「すべてが一つになること」であり、宣教の先にある万物の復興のそのまた先にあることである。それゆえ、そこにおいては、三位の区別もまたないのである。
 しかし、そのような遙かな未来における究極的な状態を、私たちはなぜ今、目指さなければならないのだろうか。それは、私たちの精神が時間を超越したものであり、それにより私たちは、万物の初穂であるからである。そして、エックハルトによれば、私たちは、「永遠の秘蔵性の隠された闇から父が永遠の内で生んだ独り子であると同時に、すべての純粋さの満ちた原初の純粋性という原始の内に依然としてとどまりつづけている」のである。すべてのものは、ひとつのところから流出し、またひとつのところへと帰り行くのだとエックハルトは語る。それゆえ、私たちが原初の純粋性の内にとどまり続けているのなら、また最後の回帰にも関わっているのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが、このような意味において知性的に生きるよう、わたしが話したこの永遠なる真理が私たちを助けてくれますように。アーメン」。

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