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2011/04/25

神が魂の内に子を生むということについて

 「神は完全に一なるものである」とエックハルトは言う。しかし、その「一なるもの」であるところの神が「魂の内に子を生む」とは、いかなることなのか。彼は言う、「神は自身を自分自身から自分自身の内へと生み、そして自らを再び自らの内へと生む」と。神が完全に一なるものであるなら、つまり、神がすべてを包括しており、パウロが言う通り、すべてのものは、神の内に生き、活動しているのなら、神にとって自分以外のところはないのだから、まさに彼が言うように、「神は、自分自身を自分自身の内へと生む」と言えるであろう。しかし、実はこのことは、そのようなつじつま合わせ以上のことである。というのは、私たちは、神の姿に象って創造されたのであるから、神が自身を生むのは、この地上においては、他でもない私たちの魂の内へだからである。というより、神は、ご自身をその内に生むために、私たちをご自身に象って創造されたのである。しかし、神がご自身を私たちの魂の内に生むということは、また同時に、私たちが神を生むことでもあるのである。というのは、私たちが神の似姿であるならば、私たちは神と同様に、神を生む能力をも持っていることになるからであり、神は天にいまし、あなたは地上にいるのであるから、この地上で神が生まれるとしたら、生むのはあなた自身以外にはないのである。そして、それが、主が乙女マリアから生まれた訳であり、神はこの地上において、そのように御業を行われるのである。しかし、ここで重要なことは、私たちは神を私たちの内、すなわち自分自身の内へ生むのではない、ということである。私たちは神を、自分の外へと生むのである。しかし、神はすべてのすべてであるから、そのことはまた、私たちが神を、神から、神の内へと生むことでもあるのである。そのように、私たちは神ではなく、神により創造された神の似姿なのであり、神がすべてのすべてであるのに対して、私たちは、個体性、多様性、時間性を持っているのである。
 このとき、一つの重要なことがある。それは、私たちの知性がこの誕生を知覚していることである。そして、同時に神の知性もそのことを知覚する。私がそれを「知覚する」のは、神に従うためである。すなわち、いままで無意識に行っていた「生む」という行為を、神から受けた賜物として、自分の意志で行うのである。それは、これまで教えられていた信仰の真理以上のことである。というのは、あなたがあなたである間は、このことを決して行うことができないからである。あなたが神から与えられた「生む」という能力を自分から働かせるためには、あなたはあなた自身を完全に捨て去らなければならないのである。ちょうど処女マリアのようにである。それぬきにこのことを行うなら、それは神への冒涜となるかも知れない。しかし、あなたがあなた自身を完全に捨て去ってそのこと、すなわち「神を生む」ということを行うならば、あなたは、それまで体験したことのないほどの神との合一を体験することになる。実際、この「神を生む」ということ以上に神と一体となる行為が他にあるだろうか。この地上における、個体間の最深の関係は、実に親子の関係、つまり生むものと生まれるものの関係だからである。
 しからば、この「神を生む」とは、具体的にどのようなことなのだろうか。それは、乙女マリアの言葉に表れている。すなわち、彼女が天使に語った「お言葉どおり、この身になりますように」という言葉である。つまり、神の御業がまず私というこの身に成就し、そして次に私を通して、この世界に成就することである。それは、あなたが今までにも聞いたような、教えられて来たような古い教えのようにも聞こえるかもしれない。しかし、そうではない。実に、このことこそが、あなたが「神を生む」ということなのであり、事実、あなたの内でそのことが起こっているのであり、神が天にいまし、あなたが地にいる、まさにそのままに、あなたは神と合一することなのである。
 エックハルトは語る、「すでに何度も話したことであるが、像としてのある像とその像のもとになったものとを互いに切り離すことはだれにもできない。魂が神の像であるような場で魂が生きるときに、魂は生むのである。そこに本当の合一がある。この合一を全被造物は互いにほどくことができない。神自身をものともせず、天使をものともせず、魂も一切の被造物もものともせずわたしは断言する、魂が神の像であるところでは、それらは魂を神からけっしてはなすことはできないであろうと。これが本当の合一であり、この内に本当の浄福がある。多くの師たちは浄福を知性の内で求める。しかしわたしは、浄福は知性の内にも、意思の内にもなく、それら二つを超えていると断言する。浄福が知性としてではなく、浄福としてあるところ、神が神としてあるところ、魂が神の像であるようなところ、そこにつまりは浄福はある。そこでは魂は魂であり、恩寵は恩寵であり、浄福は浄福であり、神は神である。主に祈ろう。わたしたちが、そのように神とひとつになることに恵まれるよう、神が助けて下さるように。アーメン」。

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