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2011/04/08

捨て去るということの意味について

 先の説教においてエックハルトは、「人は、自分自身を捨て去ることにより、キリストと、神と、神聖とをみずからの内へ迎え入れるのである」と説いているが、「自分自身を捨て去る」とは、どういうことなのか。それがこの説教の趣旨である。それにしても、そもそもどうやって、行為の張本人であるところの自分を捨て去ることができるのか。それはまず、連続的に行い続けることはできない。なぜなら、自分を捨てたなら、もはや行為者は自分ではないからである。そして再び、それは継続的に行う必要がある。なぜなら、自分を捨てても自分という存在は残っているのであり、その自分が以前の自分を拾い返すかもしれないからである。これらのことから言えることとしては、「自分を捨てる」とは、「自分の生き方を捨てる」ということであり、それは「継続的な決意」に他ならないのである。
 しかしいったい、なぜそのようなことをする必要があるのだろうか。それは、エックハルトによれば、神がその人を全世界と全被造物との中から選び出したからである。それは、その人が実を結び、その実がその人にとどまるためである。この実とは、この世のものとはまったく異なり、私たちが見たことも聞いたこともないような霊的な喜ばしい賜物である。それがその人に生じると共に、その人の内にとどまり続けるのである。
 しかし、そのために私は、自分を捨てなければならない。それがこの世界の中に存在し続けながら、この世界から選び出されるというこのなのである。その人は、もはやこの世界の法則に従って生きるのではなく、まったく新しい掟に生きる者となる。「神の掟は神の本性である慈しみであって、神の本性は神の掟においては神の慈しみなのである」とエックハルトは語る。それは、「相手のために自己を犠牲にする愛」である。それゆえ彼も、もはや自分のために生きるのではなく、自分を世界から選び出した神のために生きるのである。そして、そのことは実は神のためというよりもむしろ彼のためなのである。というのは、それにより彼は、この世の諸々の思い煩いから解放されて、真に神だけを愛することができるようになるからである。そして、それが「真に神の知る」ということなのである。なぜなら神は、この世界から離れた、遠い宇宙の果てにおられるのではなく、正にあなたとの交わりの中にこそおられるからであり、このことを知らない人は、まだ神を知ったことのない人だからである。
 「創造されたいかなるもののうちにも真理はない」とエックハルトは言う。それゆえ、この世界を歩き回り、奔走し、探求することによっては、人は決して神を見い出すことはない。神とは、何かの対象物ではなく、あなたの心が認識するものだからである。それゆえ、ある意味で、あなたも神の一部である。あなたが存在しなければ、神は神ではないとも言えるのである。もちろん神は、どんなものにも依存せずに存在し、まったくの無からこの世界を創造された。しかし、しかし神はあなたをご自身に象って造られたのである。それゆえ、神のことを上記のように言うことは、神を御座から引き降ろすことではなく、あなたを神のもとに引き上げることである。主イエスは、そのためにこの世界に来られたのである。神は、ナザレのイエスという人になられた。それは、完全なる神にして、また完全なる人であった。つまり神は、人になれる。そして人は神になれる存在に、つまり神の形に創造されたのである。神は唯一である。しかし、「あなた方は、神々である」と聖書に書かれており、主イエスもそのように言われたのと同じ意味において、私たちは神の子孫なのであり、神は、私たちとの交わりの中にこそおられるのである。「わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目である。わたしの目と神の目、それはひとつの目であり、ひとつのまなざしであり、ひとつの認識であり、そしてひとつの愛である」とエックハルトは語る。それが神とあなたの関係なのであり、その関係の中で、あなたは神を認識するのである。
 エックハルトは語る、「ところで、大いなる事物について語るのを好む偉大な師プラトンは、この世にはない純粋性について語っている。それはこの世の内にも外にも存在せず、それは時間の内にも、永遠の内にもなく、外も内もないあるものである。このものから、永遠なる父である神は、神のすべての神性の豊かさと深淵とを表わし出すのである。これらすべてを父はここ、その独り子の内で生み、わたしたちが同じ子となるように働くのである。そして父が生むことは、父が内にとどまることであり、父が内にとどまることは父が外に生み出すことである。常にあるのは、それ自身の内で湧き出ずる一なるものである。『われ』という言葉は、その一性における神だけに固有な言葉である。『汝ら』という言葉は、『一性の内で汝らは一である』という意味である。『われ』と『汝ら』、この言葉は一性を指し示している。わたしたちがまさにこの一性でありますよう、またこの一性を保てますよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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