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2011/04/06

砂を噛むような

新改訳聖書を読んでいると、各節のつながりがどうも良く分からないところが随所にある。例えば下の箇所。

ヨハネの福音書
【新改訳】
4:43 さて、二日の後、イエスはここを去って、ガリラヤへ行かれた。
4:44 イエスご自身が、「預言者は自分の故郷では尊ばれない。」と証言しておられたからである。
4:45 そういうわけで、イエスがガリラヤに行かれたとき、ガリラヤ人はイエスを歓迎した。彼らも祭りに行っていたので、イエスが祭りの間にエルサレムでなさったすべてのことを見ていたからである。

44節の「証言しておられたからである」は、文脈上、43節の「ガリラヤへ行かれた」の説明と受け取れるが、ガリラヤが他でもないイエスの故郷なので、これではまったく意味が通らない。また、45節の「そういうわけで・・・・イエスを歓迎した」は、44節の「尊ばれないと証言しておられたからである」を受けて言っていると文脈上受け取られるのだが、これも正反対のことを言っていて、まったく意味を成していない。これらのことの結果、45節の最後の「見ていたからである」も、45節内では意味が通るものの、43~45節を通しての一つの出来事全体の帰結としてみると、やはり意味が分からないものとなる。

なぜ、このような支離滅裂な訳になっているのだろうか。これは、意図的に行われているとしか思えない。そうでなければ、ここを訳した人は、人間ではないか、精神分裂症であろう。そこで、意図的に行われているとした場合、それは、彼らが提唱しているところの、「トランスペアレントな訳」ということなのだろう。つまり、原語から訳すときに、何か規則を設けて、それに従って機械的に訳しているのだろう。それゆえ、ヘブル語の分かる人なら、この日本語訳から、元がどのように書いてあったのかが、なんとなく思い出せるというようなことなのだろう。しかし、それは言わば、牧師がほくそえみながら読むための聖書でしかなく、信徒には何の益も無いばかりか、このようなものを毎日読まされていては、読む人の読解力もだんだん麻痺してきて、ついに聖書は、難解な書物で、読みたくも無い代物になってしまうと思われる。実際、新改訳聖書を読んでいる人の話を聞くと、聖書が「砂を噛むように思えるときがある」と言うが、私にはその意味がまったく分からなかった。しかし、上記のようなことを背景にすれば、それも理解できる。

ちなみに、新共同訳では、次のようになっている。

【新共同訳】
4:43 二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。
4:44 イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。
4:45 ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。

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