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2011/04/02

自分自身を脱ぎ捨てるということについて

 「人は、自分自身を捨て去ることにより、キリストと、神と、神聖とをみずからの内へ迎え入れるのである」とエックハルトは言う。それでは彼の場合、聖書は必要ないと言うのだろうか。この説教を文字通りに受け取る限り、そのようにも思えるのだが。しかし実は、彼はまたこうも言っているのである。すなわち、「さあ、神のもとへあなたを徹底的に投げ出しなさい。そうすればあなたは神的流入をすべて純粋に受け取ることになるのである」と。そこで、自分を投げ出すと言っても、神の前に投げ出すのであり、これは実は、そう簡単なことではない。というのも、自分自身を投げ出しているのが神の前なのかどうかが問題となるからであり、まさにそのためにこそ聖書が必要となるようなのである。つまり、エックハルトの場合、聖書は、その人が自分を正しく神の前に投げ出すための拠り所なのである。そして、そのように自分を投げ出すことができれば、もはや彼の行うことは他に無く、後はすべて神の側で成して下さるというのである。
 そこでこの浄福は、記憶力や理解力、その他どのような人間的な能力にも依らないのであり、それは、私たち弱いもの、限界を持つもの、老い行くものにとって、一つの朗報ではないだろうか。というのも、どうも現代の教会においては、知識や理解力、思考能力。さらには器用さまでもがもてはやされており、そのような能力が、あたかも救いに与るための一つの必要条件とさえ思われるほどだからである。まあ、そうまでではないにしても、聖書の言葉を多く暗記している人の方がそうでない人よりも信心深いと見られたり、聖書を良く理解し、それについてより多く語れる人の方が信仰が強いと思われるというようなことは、ありがちなことではないだろうか。
 これに対してエックハルトのアプローチは、信仰とは、何かを願ったり念じたりというようなことではない。むしろ、それらすべてを捨てて、自分の手を空にすることなのである。それは、彼によれば、人間は完璧なる神の似姿に創造されたゆえに、彼の浄福のためには、神の作品である彼自身以外に新たに何かが必要ということはなく、必要なものはすべて、彼の内にすでに備わってあるのである。それゆえ、彼が新たに何かを得ようとするなら、それは彼の信仰にとって余計な付け足しとなるばかりか、むしろ不信仰でさえあるのである。「魂がどんなに偉大なものとして創造されたか、よく心にとめておいて欲しい」とエックハルトは言う。実際聖書にも、「神は、人を御自身に象って創造された」とあり、その事実を以て、信仰により、神に全面的に頼り、信頼し、その前に自分を徹底的に投げ出すのであり、この「投げ出す」という行為が不可欠とされているところが彼の独自性のように見える。しかし、それは本当にエックハルトの独自性なのだろうか。いや、たぶんそうではないだろう。というのも、キリストが「自分を捨て、日々十字架を負って」と言われたからである。そして、そのためにこそ聖書は書かれたのである。
 エックハルトは語る、「預言者は、次の二つのことを驚きをもって語っている」と。すなわち、「第一は、神は星と共に、月と共に、そして太陽と共に働くということ、第二には、神は魂とともに、魂のために、これほどに大いなることをなし、今もなおなしているのだということ」と。つまり神は一方で、この世界の物理法則を支配しておられるのであるが、また一方で、神は魂と非常に密接な関係にあるのである。というより、神と魂の関係は、神とこの世界の関係とはまったく異なっている。彼は別の説教の中で語っている、「魂が魂自身であるよりも、神は魂にさらに近い。まことに、神と魂との近さとは両者の区別も見出せないほどのものである。神がみずからを認識するときのその同じ認識が、自由となったおのおのの精神のなす認識なのであり、これらは決して別なものではない」と。
 神と魂の間の関係においては、距離というようなこの世的な概念は存在しない。彼は語る、「ところでどのようにして魂は神から受け取るのであろうか。魂が神から受け取るものは、空気が太陽から光を受け取るように、この場合空気は光を未知のものとして受け取るが、そのような見知らぬものではけっしてない。魂が神を受け取るのは、未知の内でもなく、神以下のものでもない。自分以外の別なもののもとにあるものが、未知とか距離とかを持つからである。師たちは言っている。魂は、光が光を受け取るように受け取るのである。なぜならば、そこには未知も距離もないからである」と。
 私の言いたいことは、こうである。すなわち、神と魂の関係をこの世界と神との関係の類似や発展として捉えることはできない。そこには、未知も距離もないのであり、私たちは、常に自分を神の側において考える必要があるのである。そのためには、どうなれば良いのだろうか。彼は語る、「どうすれば正しいあり方となるのであろうか。預言者の言葉に従えば二つのあり方においてである。預言者は、『時が満ちると、御子が遣わされた』と語っている。『時が満ちる』のには二つの仕方がある。ひとつは、たとえば晩に一日が果てるように、その終わりにおいて、あるものが『満ちる』場合。つまり、すべての時間があなたから失われるとき(つまり死するとき)、このとき時が満ちるのである。二つ目は、時間がその果てに到るとき、つまり、時間が永遠の内へと入るときである。なぜならば、そこでは一切の時間が終わりを告げ、そこには以前も以後もないからである。そこにあるものは、すべて現なるものであり、新たなるものである。かつて生起したものも、これから生起するものも、あなたはここではひとつの現なる直感の内でつかむのである。ここには以前も以後もなく、一切が現在である。そしてこの現なる直観において、わたしは一切の事物をわたしの所有となすのである。これが『時が満ちる』という意味である。そのような正しいあり方にわたしがいたれば、わたしは真に神の独り子となりキリストとなるのである。この『時が満ちる』ところにまで、わたしたちが到るよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン。」

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