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2011/03/25

神の子の誕生について

 その夜、マリアは男の子を生み、名をイエスと付けた。これに対してエックハルトは、「マリアが神をまずはじめに霊的に生んだのでなければ、神はけっして身体をもってマリアから生まれることはなかったであろう」と言う。
 「生む」ということは、そもそも私たちの能力を超えている。それは、自分と同じ存在を輩出する働きなのだから。そこで、マリアが神を生むためには、その前にまずマリアが神と同じ姿になっていなければならなかった。そして、人が神と同じ姿に、つまり神に似たものになるということは、すなわち霊的に神を生むことだとエックハルトは言うのである。「生むこと」は、元々神の聖なる性質であり、それが人間にも与えられているのだからである。マリアが「どうして、そんなことがありえましょうか」と言うと天使は、「聖霊が上から、至高の座から降り来たり、永遠なる光の父から、あなたのうちに来たるであろう」と告げた。そしてマリアが、「お言葉通り、この身になりますように」と言って、自分のすべてを神に委ねると、聖霊が天から降りきたり、マリアの内に来て、神を生むにふさわしい状態に彼女をしたのであった。
 エックハルトは語る、「すべての被造物は、生むことと、父と同じになることを願って行為している」と。そしてそれは、神と魂の共同の業なのである。この共同作業は、ちょうど山彦の反響のようなものである。すなわち、エックハルトによれば、「神はその独り子を魂の最も高きところに生む。神がその独り子をわたしの内に生むとき、同じ動きの中でそれをうけて、わたしはその独り子を父の内へと生みかえす。これは神があの神の子の誕生をマリアに告げた天使を生んだあとで、神が再び処女マリアから生まれたこととちょうど同じことである」と。つまり、神は私たちをご自身の似姿に創造された。それは、単に造るということではなく、その中に神の命の息を吹き入れること、魂の内に神の業を始めることであった。そこで人は、生きたもの、その内に神の業を持つもの、生むものとなったのである。実際、この「生むこと」以上に神秘的で、神に近い業が他にあるだろうか。そして、この「生むこと」の目的は、地上的には、子孫を残すこと、神の似姿である人間を輩出することであるが、霊的には、「神を生むこと」、すなわち、神と同じ姿とされることに他ならないのである。しかし、なぜ「神を生むこと」が「神と同じ姿になる」ことなのか。それは、肉体における出産のことを考えれば良く分かる。つまり、妊娠は別にしても、出産つまり生むこと自体は100%女の領域のことだからである。魂と神との関係もこれと同じである。魂の中に神の独り子を生むのは神の業であるが、それは、私たちの意識や意志を無視して行われることではない。いや、それはむしろ、神が私たちに神の独り子を生ませること、すなわち。私たちが自ら神の独り子を生むことであり、それはつまり、私たちが神の似姿となることなのである。
 この「私たち自身が神を生むこと」が可能となったのは、キリストが天の御座から降り来たり私たちのところへ来られたことによる。「神が魂を創造したとき、魂が独り子の花嫁であるようにと、神は魂を神の最高の完全性に従って創造した。子はそのことを十分に知っていたので、永遠なる父性の秘められた宝庫から歩み出ようとしたのである」とエックハルトは語る。そして、その目的は、再び彼によれば、「その秘められた神性の隠された秘密をそこで彼女(魂)に明かそうとした」のである。この「永遠なる神性の隠された闇」は、かつて御子自身が創造した「永遠なる栄光の幕屋」であり、そこは、すべての認識を超えている。そこでは、すべての事物の原像は一であるからである。すべてのものは、ここに帰り来たることをめざして運動しているのである。しかし、この一なる領域へ帰り来たるためには、被造物のすべての区別性は超越されなければならない。そのためには、すべての被造物は、自分を捨て切らなければならない。魂は、自分という認識を完全に放棄しなければならないし、それ以外の被造物は、知性の成す透明な認識によって、魂の内に取り込まれなければならないのである。それは、御子の愛に応えて、御子を愛し、御子のために自分の命とこの世界を捨てることである。それは、まず御子が私たちのためにご自分の命を捨てられたからである。そのようにして、すべてのものが御子により、この「永遠なる神性の隠された闇」に戻り来たることが、かつてそこから流れ出て来たすべての被造物、つまり全宇宙とあなたの最終目的なのである。聖書に、「神は、あなたの出づると入るとを守られる」とある。あなたがそこから出てきたのは、あなたが再びそこへ帰り来たるためであり、「出づる」と「入る」という、時間の中で生起するこれら2つのことは、時間を超越した世界、すなわち永遠の内では、実は初めから一つのことだったのである。
 エックハルトは語る、「『初めに』、これはすべての有のはじまりという意味である。さらにその上に、有の終りである。なぜならば、最初のはじまりは、最後の終りのためにあるからである。まことに、神が最初の始まりである場ではけっして神は安らぐことはない。神が安らぐのは、神がすべての有の終りであり休息である場においてである。この場合休息とは、この有があたかも無に帰するようになるのではなく、むしろ、この最後の終わりにあるものとして、その最高の完全さに従い、そこでこの有が完成することをいうのである。この最後の終わりとは何であるのか。それは永遠なる神性の隠された闇である。そこは認識されることがない。認識されることはこれまでにけっしてなかったし、またこれからもけっしてないであろう。そこでは神は、自分自身の内で認識されずにとどまり、永遠なる父の光がそこでは永久に差し込んでいるが、しかしその闇がその光をとらえることはついにない。わたしたちがこの真理にいたりつくよう、わたしが語ったこの真理が、わたしたちを助けてくれますように。アーメン」。

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