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2011/03/09

自分の魂を憎むということについて

 「魂」とは、一種不可解なるものである。それは、そもそも実在するものなのだろうか。有るとすれば、どこに存在しているのだろうか。またそれは、100%自分と言えるものなのだろうか。エックハルトの教えるところによれば「魂」とは、まず身体よりも大きく、身体を包み込むような存在である。そればかりか、彼によれば魂は、この世界のすべての事物の像が刻み込まれる可能性をそれ自身に持っているという。つまり、魂は、一つの小宇宙とでも言うべきものなのである。そして、そのような広大なものが、身体というきわめて窮屈な場所に閉じ込められている、というのが人間存在の実相だと言うのである。
 それゆえに、人が自己の魂について正しい認識を持つのは、容易なことではない。その際、まず重要なこととしては、魂を自分の意のままにしようという思いから解放されることである。つまり、自分がどのように成るべきかということ、そしてそのために、自分が何を成すべきかということ。この二つを共に、完全に神に委ねるということが重要なのである。
 それでは私たちは、自分の魂について、いったい何を期待すべきなのだろうか。エックハルトによれば、「魂の本性および本性的完全さとは、魂がみずからの内でひとつの知性的世界に、つまり神が一切の事物の原像を造り入れたあの知性的世界になることである」ということである。ここで語られているところの「神が一切の事物の原像を造り入れたあの知性的世界」とは、いったい何のことだろうか。それは、神の独り子のことではないだろうか。神は、世界創造に先だって御子を生み出され、御子によってこの世界を造られたとされているのだから。この世界は、御子により、御子のために造られたのである。しかし、エックハルトがここで言っているのは、さらに私たちがその御子と同じ知性的世界にならなければならないということなのである。
 エックハルトは語る、「自分自身の本性に至りついているという人がいれば、その人はすべての事物が、神の内にあるように、純粋さの中で形造られているのを自分自身の内に見出さなければならない」と。それでは、すべての事物は、すでに私の魂の内にあるのだろうか。或る意味では、そうである。それゆえに、私の心は、事物を認識できるのである。それは、その事物に対応するものが私の心の内にもある証拠である。しかし、それは事物の像そのものではない。それは、「原像」なのである。「そこにおいて魂はすべての事物を神の内で、それも、すべての事物があるようなその自然的単純さの内においてではなく、それらが神のうちにあるような純粋な単純性の内でつかむのである」とエックハルトは言う。
 そのために私たちは、この世界の事物に必要以上に目を引かれてはならない。魂は、その本性においては、この世界の事物と何等関係を持たないのである。「魂をこの世界へ引き入れるのは愛より他のなにものでもない」とエックハルトは言う。そう、ただ愛において私たちは、この世界と関わりを持つのである。そして、私たち自身の魂については、知性の内に取り込まれた事物の像も含めて、私たちは、それらを憎まなければならないのである。
 エックハルトの祈り、「わたしたちの愛する主よ、わたしたちが魂を永遠の命のために護るよう、わたしたちの魂がまとう装いのもとでは、わたしたちが、わたしたちの魂を憎むようになることを。そのために神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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