« 2011年3月6日 | トップページ | 2011年3月9日 »

2011/03/08

神のために神を捨て去るということについて

 「人が捨て去ることのできる最高にして究極のものとは、神のために神を捨て去るということである」とエックハルトは言う。「究極のもの」、それは往々にして、常識では理解できないようなものであり得る。例えば、「究極の愛」について。神は、ご自分に反逆せる罪人らのために、ご自分の愛する独り子を罪人として十字架で殺された。これ以上の不条理があるだろうか。神から人への愛がこのように理解し難いほどのものであるなら、人から神への愛もまた、その究極においては、そうであり得るのではないか。それが、ここでエックハルトが語っていることなのである。彼は、ローマ書9章の「わたしは、わたしの友のために、そして神のために、神から永遠に離れていたいと思った」という箇所を引用し、この「究極の浪費」を成したのは、他でもない、あの使徒パウロだと言う。そしてそれは、彼の一時的な迷いや躓きなどではなく、返ってそのとき彼が完全性そのものの内にあったことの証拠だとエックハルトは言うのである。
 それにしても、パウロに神を捨て去らせた動機とは、いったい何だったのだろうか。エックハルトによれば、それは実に「等しさ」であった。彼が愛し、大きな苦難を払って福音を宣べ伝えていたところの失われた同朋たちへのその熱い愛は、パウロをして、彼自身と同朋との間のギャップをすぐにでも埋め合わさせずにはおかなかった。そのためには、たとえそれが前進ではなく、後退に見えようとも、また、建設的でなく、破壊的に見えようとも、また、救いではなく、むしろ破滅にさえ見えようとも、パウロにとっては、自分が彼の同朋と等しくなることこそが重要だったのである。それはちょうどキリストが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、返って己を虚しくして、下部の姿をとってこの罪の世に降られ、私たちと「等しく」なられたのと同じであった。キリストは、そのようにして、天の御座から降り来たり、私たちのところに宿られ、苦難の生涯を経て、ついに十字架に死なれたのであった。それは人間的には、まさにすべてを失う、破滅的な行為でさえあったのである。しかし、見よ、キリストは、墓の中で朽ち果てることがなかった。「等しさ」を望む愛が、すべてに打ち勝ったのである。そして、パウロにおいても、滅びゆく同朋と同じ境遇に甘んじたいとの彼の願いは、彼を神から引き離すことなく、返って彼の信仰とキリストへの愛を透明で純粋なものに磨き上げたのであった。
 エックハルトは語る、「神が働き教えるもの、それを神はすべて独り子の内で働き教える。神がなすわざのすべては、わたしたちが独り子となるためのものなのである」と。彼がここで言っている「独り子となる」とは、独り子が持っていた「等しさ」を身につけることに他ならない。それは、自分と他の人を等しく愛することである。それは、難しいことであろうか。しかしそれは、等しくないもの同士をあえて等しくすることではなく、元々等しいものをそのままに等しく受け止めることなのである。そしてそのことが、私たちを神の独り子に「等しい」ものとするのである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが、永遠なる父のように、確固として変わらずに、とどまるよう、神と永遠なる知恵とがわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年3月6日 | トップページ | 2011年3月9日 »