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2011/03/06

純然たる無である被造物について

 「純然たる無である被造物」とエックハルトは言う。しかし、何故に被造物は無であると彼は言うのか。それは、3つの点においてである。第一には、それらが「時間性」を持つからである。時間の内にあるもの、それは、やがて過ぎ行き、廃れ行くものである。つまり、片時も同じでは「無い」という意味で「無」である。第二には、「身体性」においてである。「身体」とは、自分の「限界」であり、それ以上外には、自分は存在し「無い」ということである。従って、無限の広がりを持つ世界において、その存在範囲は無に等しい。第三には、「多数性」においてである。この世界にあっては、二つとして同じ個体は存在し「無い」。つまり、一なる認識に到達するまでは、すべてのものがなお迷いの内にあるのである。
 バプテスマのヨハネの誕生に際し、人々は言った、「この子からは何か不思議なことが起きるのではないか」と。この「不思議なこと」とは、エックハルトによれば「時が満ちること」であり、「時の内で人の心が永遠の内へと移され、一切の時間的事物がその人の内で死すること」である。それは、どのようにして起こるのか。それは、一朝一夕には起こらない。それには、「時」が必要なのである。まず、第一段階としての「感覚的な認識」による思索が分析と理解により多数性を克服し、次に第二段階としての「知性的な認識」が自己の突破により身体性を克服し、ついに第三段階としての「魂のある高貴な力」による認識が発動し、それが時間性を克服するとき、そのようにして、人の認識が広さ、長さ、高さ、深さを持つもので満たされるとき、聖書に「時が満ちたとき、神は神の子を遣わした」(ガラテヤ4:4)と書かれているように、魂の内に神の子が誕生するのであり、それまでは、神も魂も、決して満足することはないとエックハルトは言うのである。
 この「神の子の誕生」とは、いかなる事柄であろうか。それはエックハルトが、それだけを単独の説教として語っているように、一つの大きなことであり、その説教を取り扱うときに譲りたいのだが、概要はこうである。すなわち、彼がここで語っているように、「時が満ちたとき、そこに恩寵が生まれた」のである。つまりそれは、神の有から魂の有の内へと神の恩寵が注ぎ込まれることである。その恩寵は、何をするのであろうか。それは、神と魂との間に「等しさ」を造り出すのであり、この恩寵による「等しさ」が魂に小羊を啓示し、彼をしてどこまでも小羊の後を従い行かせるのである。
 エックハルトの祈り、「すべての事物がわたしたちにあって完成され、神的恩寵がわたしたちの内で生まれるよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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