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2011/03/04

神の根底にまで究めゆく力について

 エックハルトは、聖書外典であるシラ書から、「彼はその生涯において心の中で義なる者と認められ、彼は神を彼の生涯において満足させた」という箇所を引用し、「彼は、心の中で義を見出した。この義とは、真理における一切の事物の原因のことである」と言う。さて原因とは、様々な現象の元になるものであり、本来的には一なるものである。そこで、エックハルトが語っている意味はこうである。つまり、私たちの思いが神の御心に適うためには、この世界に起こり来る種々雑多な事物が、この一なる原因から認識されるべきであり、しかもそれらがそれぞれ異なる事物でありながら、それらの認識においては、一なる認識でなければならないということである。しかし、神ならぬ人間であるところの私たちに、果たしてそのような一なる認識が可能なのだろうか。しかし彼はまた語る、「アウグスチヌスが語っているように、魂が魂自身であるよりも、神は魂にさらに近い。まことに、神と魂との近さとは両者の区別も見出せないほどのものである。神がみずからを認識するときのその同じ認識が、自由となったおのおのの精神のなす認識なのであり、これらはけっして別なものではない」と。しかしもちろん、その次の箇所で彼が「神的光は魂の諸力と何らかの交わりをなすにはあまりにも高貴なものでありすぎる」と言っているように、エックハルトにおいては、神と人との差異は徹底したものなのだが、こと距離と認識に関してはそうではなく、魂の成す認識は、神の成す認識と同じであり、一なる認識であり得ると言うのである。
 それでは、エックハルトの言う、この「一なる認識」とは、そもそもいかなる認識なのであろうか。彼は語る、「人が時間や空間、それに数や多数性や量を持つ限り、人はその点ではまったく義ならざるものであり、神はその人から遠く隔たり、見知らぬものとなる」と。つまり、この「一なる認識」とは、これらのものから離れたものである。「自分の全意志を捨て去った人は、わたしの教えを味わい、そしてわたしの言葉を聞く」と彼は言う。「意志を捨て去る」とは、「こうしよう」とか「こうあるべき」と言う思いを除くことであり、その意味で戦略や因果関係を排除した認識、すなわち「時間」を超越した認識である。つまり、それぞれの事物について、それが過去から現在、未来に至るまで、連続した一なるものとして、しかも決して運命論的ではなく、変わり得るダイナミックなものとして認識することである。そのように、認識において時間が超越されることにより、空間における数や多数性や量もまた超越されることになる。というのは、これらのものもまた時間の内で働くもの、つまり時間の産物だからである。
 そのとき、我々が持っているこれまでのような時間の概念は、その根本から変革されざるを得ない。これについてエックハルトは、「本来の日」という概念を語り出す。それは「過ぎ行く時間」や「因果法則」から自由となった、躍動せる瞬間の継続、すなわち「永遠の世界」であり、彼はこれを「真の現在」すなわち「現なる今」と呼ぶ。「神は世界を現在創造しているのであり、一切の事物はこの日においてはすべて等しく高貴なのである。神は世界と一切の事物とをひとつの現なる今において創造するのである」と。つまり、この「本来の日」、「現なる今」は、神の世界創造の場であり、それゆえそこはまた、御子の誕生の場でもある。御子は、世界に先立って誕生した。しかし、時間的に先にという意味ではない。それは未だ時間の生ずる前であるから。そして、御子と世界とはまた、私たちのために誕生したのであり、その意味で私たちは、すべての事物の根本原因でもあるのである。そして、そのことを認識する者が文字通り、「心の中で義を見出す」のである。
 エックハルトは祈る、「わたしたちが自分を、知性の日と時とにおいて、知恵の日において、義の日において、そして淨福の日において、内面に見出すよう、父と子と聖霊が助けてくださるように。アーメン」。

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