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2011/02/27

知性と意志とについて

 人が神に仕えようとするとき、知性と意志のどちらがより重要なのだろうか。エックハルトは、「知性は、意志よりも高貴である。意志は善という衣装をまとった神をとらえるが、知性は、善とか有といった衣装を脱ぎ捨てた覆われない神をとらえるのである」と言う。つまり、神により良く仕えるためには、まず神について知る必要があり、この「神を知る」ということのためには、意志よりも知性の方が重要だということなのだろう。さらに、かつてキルケゴールが表現した「罪のソスラテス的な定義」を借りれば、「罪を犯すのは、その人が真理を知らないからだ」ということになり、この点からも知性が重要ということになる。しかし、神のことを良く知っている人が、神に仕えようと意志しないということはないのであろうか。この点について、キルケゴール自身は、「人は、悪いと知っていて、あえて罪を犯す」と言い、意志の重要性を主張するのである。それでは、いったいどいうことになるのだろうか。
 エックハルトによれば、知性と意志のこのような弁証法的関係は、「自然の光」のもとでのみ認識した場合であって、それより「はるかに高い光」のもとで認識した場合には、知性も意志も両方ともこの光に帰すると言う。この「自然の光」とは、人間に備わっている知性能力であり、すべての物を像として自己の内へ運び入れ、その像を介して知覚する。これに対して、意志は、その対象そのものへと赴いてこれをつかむのである。しかし、「はるかに高い光」のもとでは、知性は、すべてのものを「像も写しもなしに」認識する。これが「恩寵の光」である。それは、どのようにして照り輝くのだろうか。まず、この「恩寵の光」というものは、いわゆる明るい光ではなく、この世の光を超えた光である。そこでそれは、この世のどのような努力によっても知覚できないのである。エックハルトが別の説教の中で語っているのであるが、「天はそれ自身においては、輝きもせず、冷たくも、暖かくもない」と彼は言う。「この点に関してある別の師は、内面の光と等しいある光が魂の諸力に与えられると語る。なるほどその光は内面の光に等しいのであるが、しかし内面の光ではない」と語る。これらをどのように理解したら良いのだろうか。
 まず、エックハルトにおいては、神と人の断絶は徹底しており、その境界を越えることは、どんなことをしてもできない。しかし、神が人をご自身の似姿に創造されたということにより、この神と人の類似性から、人は完全に隔離されている自己の中に、神の御姿を見る。いや、エックハルトによれば、この神ご自身が創造された神ご自身と人との類似性により、神ご自身が実質的に人の内に住まわれるのであり、それが、エックハルトが言っている、「神は、すべての被造物のうちにある。それらが有を持つ限り。しかし一方でそれらを超えているのである。神がすべての被造物の内にあるというまさにそのことによって、神はそれらを超えているのである」ということの意味であり、これがすなわち彼が上で言っている「内面の光と等しいある光」なのである。そして、彼がさらに語るように、「この光からこのとき魂の諸力へとある刻印が与えられ、その結果魂の諸力は内面の光を受容するようになる」というのである。
 それはもはや、神の恩寵の内で働く、魂自身の努力である。彼がこの説教の中で言っているように、「魂は、一輪のバラでさえ冬の只中で考え、思い浮かべることができるのであり、この力により魂は非有の内でも働くことができるのであり、その点において、非有の内で働く神に倣うのである」。恩寵は、常に魂と共にある。しかし、それだけでは何も起こらない。神の似姿に創造された魂が、神の業を働き始める必要があるのである。もちろん神の恩寵の中で。それは、外に向かうのではなく、知性の内側に向かって働く魂の業である。エックハルトは語る、「自分自身の内で漂うこの認識の内で魂の浄福を造り出すためには、魂はそこでひとつの『譬え言』でなければならず、神とともに一なるわざを働かなければならないのである」と。エックハルトは祈る、「わたしたちが常にこの『言』のかたわらでひとつの『譬え言』であるよう、父と、いま述べたこの言と聖霊とがわたしたちを助けてくださるように。アーメン」。

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