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2011/02/23

死して有る生き方について

 「殉教者たちについて」という書き出しで、この説教は始まっている。つまり、神に従っていても、この世において私たちは、苦しみに遭うのである。すでに罪を購われ、永遠の命を約束された私たちが、なにゆえにまだ苦しみに遭わねばならないのか。これに対してエックハルトは、冒頭4つの解答を提示する。その第一は「この世の命は、死ぬ運命にある」ということ。第二に「この世の命が死ぬのには、目的がある」ということ。第三に、「それゆえ私たちは、すでに死んでいるかのように生きるべきである」、第四に「この死は、私たちに永遠なる有を与える」ということである。つまり、「私たちは、この世における死について、正しく認識し、そのあるべき目的に沿って生きるべきである」ということである。
 この「目的」についてであるが、上に挙げられている「永遠なる有の獲得」に関して、エックハルトは、その具体的な過程を興味深く説明しており、それは「魂の純化」と呼ばれている。「魂は、ばらまかれ、運び出されたものを集めるために身体の内で純化される」と彼は言う。その後で、「五感によって運び出されたものは、再び魂の内へと帰り来る」と彼が言っていることからすると、これらは、彼が提唱するところの認識の諸段階を指しているに違いない。その第一段階は、人の生来の認識能力、つまり五感による認識であり、エックハルトはこれを夕方の光という。次なる認識の段階は、神の御心により、すなわち聖霊の助けと啓示により被造物を認識することで、これは朝の光である。そして認識の最後の段階は、被造物を神自身において、つまり神と自分の合一において認識すること。これは、明るい正午であるとエックハルトは言うのである。
 それでは、魂がこの認識の初段階を昇り行くためには、いったい何が必要となるのか。実は、それこそが「この世の命の死」なのである。「わたしたちは神の内における死を称える。神はわたしたちを命よりすぐれたひとつの有の内に移すことをめざしているのである」とエックハルトは語る。この「ひとつの有」を得るために、「人は喜んでみずからを死に渡し、死にゆかなければならない」と彼は言うのである。それは、やがてやってくる「肉体の死」を受容するということに留まらず、すでにこの世を生きるときに、「あたかも、すでに死んでいるかのように生きる」ということである。それは、具体的には、信仰により、この世の被造物から肉体の目をそらせ、霊的な目で見ることを追求することである。それは、彼を時間から解放する。霊的な世界は、時間を超越しているからである。そして、時間が超越された状態においては、「戦略」というもの、平たく表現すれば「思惑」とか「意図」とかいうものは、意味を持たない。それでは、そこはすべてが静止した「死の世界」なのだろうか。いや、そうではなく反対に、すべてが躍動している活性化した世界である。そこでは、すべてが考えた通りに、認識した通りに即時に生起する。つまり、考えたこと、認識したことが、そのまま現実なのである。その責任は誰が取るのか。もちろんその人自身である。だから、そこには、めったな人は入れない。そこに入る門は、「狭き門」なのである。主イエスは、「狭き門から入れ」と言われた。
 それでは、このような議論の結論は何なのか。実は、それこそがこの説教の趣旨なのだが、その、つまりすべては、「この世の命の死」にかかっているのである。天国は、そういうところであり、そこへ入るには、自分を捨て、自分の思惑や意図、戦略から自由になり、自分を十字架につけて、主イエスに完全に従わなければならないのである。
 エックハルトは薦める、「わたしたちが分けられた一つの.命から、一である一つの.命の内へと入れるよう、神がわたしたちを助けてくださることを、愛する主に求めよう。そうなるよう神が私たちを助けてくださるように。アーメン」。

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