« 2011年2月11日 | トップページ | 2011年2月23日 »

2011/02/18

なぜという問のない生き方について

 エックハルトは「すべての聖者たちや、神の母であるマリア、そして人間としてのキリストが所有しているすべての善は、そのようにすべての人間が造られたところの高貴な本性において、すでに私のものである」という。そして、それでもなお私たちが、キリストをあがめ、私たちの主として、神として崇拝するということはどこからくるのかと言えば、それは、「キリストが神よりわれわれに遣わされた使者であって、私たちの浄福を私たちに告げ知らせた方であったということによる。キリストが私たちに告げ知らせたこの浄福こそ、私たちのものだったのである」と言うのである。
 キリストは、私たちがすでに持っていた私たちの浄福を私たちに告げ知らせるためにこの世に来た。しかし、そのために彼は、まず人として生まれなければならなかったし、また罪人として死ななければならなかったのである。そして、聖書に書いてあるように、奇跡を行い、病人を癒し、弟子たちを教え、訓練した。つまり、エックハルトによれば、キリストの全生涯は、私たちがすでに持っていた浄福を私たちに告げ知らせるためであったのである。そして、キリストが告げ知らせたものは、単に「イエス・キリストが私の罪のために死んだ」ということに留まらない。それはむしろ、キリストにあって、自分がどういう存在であり、どのように生きるべきかを本当に知ることなのである。
 もし私たちが、福音を聞き、信じ受け入れ、自分の罪を告白し、洗礼を受けて、いわゆる天国への切符を手に入れたとしても、毎日の生活に迷いがあり、日を追う毎に喜びも次第に薄れて行くようなことがあるなら、それは、キリストの意図したことであろうか。私たちが知らなければならないことのすべてが、キリストの十字架の購いだけだとしたら、あの分厚い旧新約聖書は、いったい何のためにあるのだろうか。もちろん福音派は、「そうではない」と言うだろう。しかし、彼らが創世記を読んでもそこに見るのは「原始福音」であり、サムエル記を読めば、敬虔な祈りとダビデの堕罪、そして列王記から後は、せいぜいのところ、人間の反逆と堕落の歴史に過ぎないのではないだろうか。
 そこで私たちは、もっと他のことも知らなければならないのである。たとえば、私たちがこの世で神の御心を行うためにキリストが私たちに何を勝ち取って下さったのか。また、キリストご自身がどういうお方で、私たちはキリストにあって、どういう存在なのか。さらに、キリストに従うとは、どういうことか。また、神に敵対する勢力とどのように戦ったら良いのか。私たちの神の子としての身分と万物の相続について、等々、みな私たちが知らなければならないことではないだろうか。そしてもしかしたら、私たちが「なぜ?」と問うのは、これらのことを知らないからではないのか。
 それでは、聖書にはこれらのことがは書かれていないのだろうか。否、書かれているのであり、私たちの方が、そこから福音的な要素しか受け取ろうとしていなかったのである。例えば、「人はなぜ生きるのか?」という問いに、福音主義は、どう答えるだろうか。たぶん、「神の栄光を現すため」とでも答えるしかないだろう。それは、福音主義がすでに人の罪を大前提にしているからである。しかし聖書には、アダムの堕罪以前のことも書かれており、そこにも大きな意味があるのである。それでは、聖書は何と答えるのか。エックハルトによれば、「生きるがゆえに生きる」と答える。「生」とは、それ自身が本質であり、自らに「なぜ?」とは問わないのである。もし「なぜ?」と問う者があれば、それは「生と死の選択肢を持っている者」、つまり「死を抱えている者」、アダムの堕罪以後の人間である。それゆえ福音主義の宣教は、この「なぜ?」の支配の内にある。そして、こともあろうに「人は、なぜ生きるのか」ということを教理から論証しようとする。これは、限りなく滑稽なことではないだろうか。福音主義にとって宣教とは、罪から悔い改めに至らせる過程だからである。しかし、真に生きている者は、もはや「なぜ生きるのか?」とは問わない。彼には、「死ぬという可能性」がないからである。死なない者、永遠の命を持っていることを自覚している者は、「なぜ生きるのか」とは決して問わない。彼は生きるしかないのであり、「生きるがゆえに生きる」のである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年2月11日 | トップページ | 2011年2月23日 »