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2011/02/11

魂の内にあるひとつの力について

 エックハルトは、「イエスがある城(原文では村)に入られると、女である一人の処女に迎え入れられた」というルカによる福音書の記事を引用し、このことは、どうしてもそうなくてはならなかったのだと言う。つまりこの記事は、深遠なる真理を表しているのである。その意味は、主イエスをお迎えする魂は、処女のように純粋無垢でなければならないこと。そして魂はまた、女の性質であるところの「生む」という働きを持っているということである。しかし、魂が何を生むというのだろうか。エックハルトによれば、魂は自己の内に「神を生む」のである。
 しかし、この「神を生む」とは、奇異な表現である。それは、神への冒涜とも取られかねない。しかし、聖書は、「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と言っている。誰が御子を生んだのか、乙女マリアであった。そして、エックハルトによれば、魂が神を生むのも、ちょうどこれと同じである。すなわち、聖霊により身ごもり、神と共に生むのである。しかし、なぜそうでなければならないのか。
 女に備わったこの「生む」という働きについて、私たちは通常、医学的に考えるのみで、信仰的に考えることは少ないように思える。しかし「生む」とは、自分と似たものを輩出することであり、それは元々、人間の能力を越えた、神の業なのである。つまり、私たちの魂に与えられている諸々の能力は、もちろんすべて神から与えられたものなのだが、それらの中に、人間の認識を越えたもの、もはや自分では把握、制御しきれないものがあり、その最たるものがこの「生む」という能力なのである。それゆえに、魂がこの能力を行使するとき、それはもはや自分だけの業ではなく、神と共に働く業なのである。
 魂は、神の内で、神によって、神を自己の内に生む。そして、自己をも神の内で、神によって、自己の内に生むのであり、それは、神に再創造された新しい自己である。なぜ、そのような面倒なことをするのだろうか。そのわけは、魂には互いに共通部分がないからであり、他人の心の中に一歩でも踏み込むことは互いにできない。実際に魂は、外界という共通世界の中に生まれてからこれまで、そのようにして、自己という閉じた世界の中に、独自の精神世界を築いてきたのである。それゆえ、彼の認識した万物とすべての物理法則、すべての真理、信仰の対象としての神までもみなそこに存在しているのである。このような考えは、一見突飛なものに思えるかもしれない。しかし、自分とこの世界を真剣に観察し、把握した限りのことから正直に考察する限り、そのように考えるのが自然ではないだろうか。
 そこで、上記のことを認めるならば、魂の住む世界には、互いに共通点がなく、魂は自分の精神世界を自分で建設しなければならないことになる。魂は、堅く閉ざされた独立の部屋のようなものであり、外界や悪しき存在から完全に守られているのである。そしてそれが、神の姿に創造されたということの一つの帰結でもあるのである。そして、エックハルトによれば、実に神さえも、その三位一体の個々の位格にある状態では、入ることができないほどの、彼が「魂の城」と呼ぶ最内奥が存在するのである。しかし、そこにおいてはまた、神はすべてを超越した形態において、永遠の昔からこの「魂の最内奥」にいるのである。
 エックハルトは、自分が到達した上記のような世界観の信憑性に対して、彼の魂を担保として差し出すほどに傾注しているのである。それは、彼は神秘主義者として、真剣に真理を追求しているのであり、返って福音主義者が往々にしてそうであるように、自分の理解できないことを、さも理解したようには主張しないのである。そして、彼の他の説教で語っているのであるが、御子の誕生、宇宙の創造、人類の創造と堕落、選びと救い、万物の相続、世界の終わり、新しい天地、永遠の命までを包括的に、そして人間に把握できる方法で解き明かすことができるのは、彼の発見したこの考え方以外にないと私も思うのである。

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