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2011/02/06

魂という神殿について

 エックハルトは、私たちの魂は、神が臨在される神殿だという。そして、主イエスがかつて神殿から、商売をする者たちを追い出されたように、今日でも、神と取り引きしようとする者たちを、主イエスは追い出し、ご自身のみその中に、すなわち魂の中にいることを望まれる。つまり、私たちは、少しの下心もなく、主イエスを自分の心にお迎えする必要があるのである。
 この「下心」とは、何であろうか。それは、いわば「神との取り引き」である。たとえば、「神に対して無知な人」がいるとする。もっとも私たちは、誰も完全に神を知ってはいないので、誰でもある程度それが当てはまるのであり、その度合いの差とも言えるのだが。とにかくその人が、神を心に受け入れようとする場合。つまり、心の神殿に主イエスをお迎えしようとする場合に、必要なことは、聖書の言葉のみを根拠とすることである。つまり聖書に「そうせよ」とか「そうして良い」と書いてあるから、私たちは、神を心に受け入れようとするべきなのである。しかし、もしその人が、何か自分の無知を補うもの、たとえば「へりくだった心」とか、「謙遜」とか、「忍耐」とか、そういった「一見良いと見えるもの」に頼って、それに力を借りて、神を心に迎えようとするなら、その人は、「神と取り引きをする商人」であり、「主イエスに宮から追い出された者たち」であるとエックハルトは言うのである。
 それでは私たちは、どのように主イエスを心にお迎えすべきであろうか。まず、すべての動機、恐れ、ためらい等々を捨てる必要がある。ところがこれは実は、ある意味でとても難しいことである。というのは、主イエスを心にお迎えするということは、その人が主イエスに直面し、二人だけになるということだからである。もし、その人が、この世界に何か捨てきれない楽しみを持っているなら、その人の心は、主イエスと二人だけになることを望まないだろう。というのは、あの金持ちの青年のように、主イエスがその人に、「あなたの楽しみを捨てて、私について来なさい」と言われるであろうからである。そこで、そのような人が心に主イエスをお迎えしても、主イエスとの間に、つい立てを置いてしまうか、監獄の面会室のように、超えられない境界を設けて、それを介して主イエスと向き合うのである。もし彼自身が、その自分で築いた垣根を取り去るならば、彼は、主イエスと顔と顔を合わせて対面することになるだろう。そして、それができるまで、主イエスはその人を待っておられるのである。
 それでは、この困難を取り去ってくれるものはなんだろうか。それは、聖霊の力である。聖霊は、主イエスが約束され、その約束の通りに、天から降られ、今も私たちを助けるためにこの地上におられる方だからである。もし聖霊がおられないなら、私たちには何の望みもない。しかし、現に聖霊がおられて、私たちを助けてくださる。どう助けてくださるかと言えば、聖霊は、主イエスとはどういうお方かを教えてくださるのである。それが聖霊の役目である。聖霊の助けなしに、私たちは主イエスというお方を知ることはできない。「主イエスを知る」とは、知識として知ること以上のことである。それは、「主イエスの主権」を知り、実感することである。それを聖霊に求めよう。そして、主イエスの主権を知ったなら、私たちは、その麗しさの前に、慕わしさの前に、美しさの前に、愛の前に、力強さの前に、気高さの前に、尊さの前に、その他考えられるすべてのすばらしさの前に圧倒されることだろう。それは、私たちをすべてから解放する。あなたの肉体、肉なる心、そのすべては、主イエスの主権の前にひざまずき、彼に従うだろう。そのとき、あなたの持っていた、どんな楽しみや宝も、実に糞土のように見えるだろう。そしてあなたは知る、あなたが誰であるか、主イエスが誰であり、神がどのようなお方か、そしてあなたは知るだろう。あなたが何のために造られたか。この世界は何のために存在するのか。その他、すべてのことの意味を知り、あなたの心は、永遠の平安に入る。このとき初めて、エックハルトが言うように、外なる人はその死に至るまで内なる人に従順となり、変わらぬ平和のうちで、常に神に仕える者となる。
 どうかイエスが私たちのうちにもおとずれ、すべての障害を追い出し、取り去り、主が父と聖霊と一なるものとして、一なる神であるように、わたしたちを一なるものとし、わたしたちが主と一になり、永遠に変わることのないよう、神がわたしたちを助けてくださるように。アーメン。

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