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2011/02/01

祈りについて

 実は、最近まで私は、祈りというものをほとんどしなかった。するときと言えば、他の人から頼まれたときとか、教会で祈る役目を与えられたとき、または特に神の助けや導きが必要になったとき等であった。しかし、よく考えてみれば、これは高慢な態度である。というのは、上のことを裏返して考えてみれば、普段は神の助けや導きが必要ないと思っていることになるからである。しかし、もちろん、いつも神の御心を求め、考え、神に頼っていることも事実ではある。つまり、いわゆる祈りの姿勢はとらないまでも、そのような神を待つ態度を、パウロの言うところの「絶えず祈りなさい」と言われる種類の祈りに含めるなら、私も、まったく祈らなかったということにはならないかも知れない。
 それでは、どうして祈りの座にあまり座らなかったのかと問われれば、祈りというものは、不可解で意味が分からないからとでも答えるしかないだろう。もっとも、祈りの意味が分からないとは、クリスチャン失格と言われそうだが、祈りとは、そういう不可解なものだと本当に思うのである。その理由を説明しよう。
 まず、祈りは、理性の業であると共に、それ以上に、霊的な業、霊の業であると思う。理性で祈っていても、神に届くのは、たぶん霊的な祈りの言葉であり、その翻訳を聖霊がしてくださるのだと思っている。しかし私自身には、自分の祈りがどのように翻訳されているのかは分からない。また一方で、敬虔そうな姿勢をとった方が効果的な祈りができるとも限らないようだ。たとえば、礼拝における賛美タイムの選曲のときなど、悩みに悩んで与えられず、自分の努力を放棄して、ごろっとなり、天井を見上げたときに与えられることも良くあることだからである。そういうことなら、なにもかしこまって座らないまでも、普段の生活の中で神の御心を求め続ければ良いのかもしれない。
 しかし、祈りにはまた他の要素もあり、こちらの面からは、普段の生活の中でとか、そういう片手間では行えないような気もするのだ。それは、祈りは一つの礼拝だということである。そして、礼拝には神への捧げ物の要素があり、全身全霊をもってする必要があるように思われる。それとあと、祈りは、戦いである。あらゆる誤謬と、神へのふさわしくない態度との戦いである。その意味でも、祈りは真剣勝負であり、片手間にできるようなものではない。というのは、エペソ書にあるように、私たちの戦いの相手は、空中にいる悪の諸霊との戦いだからである。確かに、主イエスはすでに悪魔に勝利された。しかし、その勝利が私たちの実生活に未だ現れず、私たちが悪の力の前に圧倒されていることがあるならば、それは、私たちの意識の中の戦いにおいて、敗北を喫してしまっているのである。というのは、私たちの意識は、正に変幻自在の戦場であり、私たちが少しでも気を許せば、そこは悪魔の巣窟と化してしまう危険性があるのだ。私たちには、主イエスが勝ち取られた勝利があり、悪魔はこれに決して対抗できない。しかし、それを有効にするのも無効にするのも、私たちの意識次第なのである。
 悪魔は、常に欺きの誘惑を私たちに投げかけてくる。たとえば、昔から行われてきた因習の中に、それが例えキリスト教的なものであっても、知らない間に、神への偏見の材料とされてしまうことがないとも言えない。また、良いもの同士でも組み合わせにより、それらの文脈に陰りが生ずることがあるのである。それは、創世記において、「見よ、すべてが良かった」と言われていた状況の中から、神への裏切りとそれに伴う死が生じたことにも表れている。
 そこで私たちは、普段安心して居座っているところの自分の意識において、まさに真剣に悪魔と戦わなければならないのであり、それが祈りというものだと思うのである。それゆえ、祈りとは、言わば霊的現実への覚醒である。日常生活において、知らず知らずに悪魔に騙されている、その状態からの帰還である。旧約聖書になぞらえれば、バビロンからの帰還である。そこは、たくさんの異郷の因習が満ちていた。そして、そこから帰ってきたイスラエルは、神の神殿を立て、霊と誠によって神を礼拝したのである。そういう意味では、祈りの中の世界こそ現実の世界であり、普段私たちが生きているこの現実世界は、実は現実ではなく、悪魔によって統治されている偽りの世界である。私たちの生活の場は、霊的な世界、すなわち祈りに移行しなければならない。そこにおいて、私たちは、本当の主イエスにお会いし、神の子としての本当の自分の姿を知るのである。そして、それを持ってこの世界に勝利するのである。

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