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2010/12/06

歓迎されざる権威

第9章
 この世界には、様々な権威がある。しかし通常、それらの権威は、人に従属するものではなく、むしろ逆に、人がその権威に従属しているのである。つまり、権威は、外部からある特定の人に、その人がその地位にある間だけ、一時的に与えられるものである。つまり、それらの権威は、世の仕組みに帰属しているものであり、いわば使い回しされているもの、人が意のままに自由に流用できるものなのである。世の人は、そのような権威を歓迎する。というのは、もしある人がその権威を手に入れることができれば、それは、ある程度彼の自由になるのであり、そのような権威を得ようと、人は日夜精進しているのである。
 しかし、ここにまったく異なる権威が現れた。そして、この権威は、人に従属する権威である。いや、むしろ逆に、すべての権威が彼に従属しているような人が現れたのである。この世の人々は、このような権威を決して喜ばない。なぜなら、この権威は、決して彼の自由にはならないからである。返って彼がその権威に従わなければならないのである。そして、彼がその権威に打ち勝とうとしていくら努力しても無駄である。この権威よりも高い権威は存在しないのだから。返って、この世界のすべての権威は、この権威の前にひざまずくしかないのである。
 その権威を持つ方は、この世界の苦しんでいる人に、「あなたの罪は赦された」と語る。これは、この世界の身分の階層構造を破壊する。金持ちも貧しい人も、罪の赦しにおいて、異なる所がなくなるのである。律法学者も祭司も同様である。世の人々がこれまで苦労して築いてきた自分の地位が、何の価値もないものになってしまうのである。そこで、この世の人は、この権威を持つ方に逆らって立つ。この方の権威を認めようとはしないのである。そして、この世の権威により抵抗して言う、「神以外に罪を赦すことのできるものがあろうか」と。そして、その権威の根拠を要求する。彼らにとっては、罪を赦すことは、メシアの権威であり、それならばその人は、奇蹟を行えなければならない。そこで、彼らにとっては、罪を赦すことよりも奇蹟を行う方が難しいのである。しかし、神から全権を委ねられたお方にとっては、罪を赦すことよりも奇蹟を行うことの方が容易いことなのである。しかし、その方が実際に奇蹟を行われるやいなや、彼らもその方と同じ観点に立ち戻ることになる。すなわち、奇蹟を行ったからと言って、人の罪を赦すことのできる存在、すなわち神の子とは言えないということである。
 このお方は、すべての常識を覆す。この方は、取税人を招いて自分に従わせ、彼の家に入って客となる。そして、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語った。それゆえ、古い考えの人は、この方に従い得ない。この方に従う者がいるとすれば、すなわち、この方の教えである新しいブドウ酒を飲むことのできる者は、心を全く新しくされた、新しい革袋のような者でなければならないのである。

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