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2010/11/27

同等性と区別

第7章
 「良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともできない」と主イエスは言われる。すなわち、悪いものは、決して良くはなり得ず、その反対もまたあり得ない。これが区別である。しかし、「区別」自体は、何のためにあるのかと言えば、それは、「同等であること」との比較であり、したがって同等となるためであり、そのことを目指しているのである。そして、ここに何か「ひとつのすばらしいこと」があるとするならば、それは、まさに「神から出たこと」なのであり、それゆえに、それは、つまり「神と人との同等性」、すなわち「罪人が神の実の子とされること」は、文字どおりに現実となるのである。いつそれが実現するのだろうか。あなたがそのことを「求め」、人生において主を「探し」、天国の扉を「たたく」ときにそれが実現するのである。
 ところで主イエスは、二つの同等性について教える。すなわち「神と人との同等性」、そして「人と人との同等性」である。神は、人を愛の対象として創造された。「愛」とは「同等性」である。同等でないものには愛する価値はない。しかし、人は自ら罪を犯して、「神との同等性」つまり「神との愛の関係」を失ってしまった。しかし、神は人への永遠の愛のゆえに、もう一度、その同等性を回復して下さったのである。そして、私たちの同等性は、まさにこの「神との同等性」にかかっているのである。もし、「神との同等性」がないならば、「人との同等性」もまたないであろう。それが主イエスの位置づけなのである。そして再び、この「同等性」は、「区別」との対比であり、「区別」への危険をはらんでいるのであり、私たちは、主イエスへの信仰に留まることにより、「同等性」の中に留まる必要があるのである。

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主の祈り

第6章
 主イエスは、二つの祈りを教えられた。一つは、御子の名による祈り、もう一つは、父なる神の名をあがめる祈りである。神の御子が世に来られ、その苦難と死により、御子を信じる者の罪が購われ、彼は神から実の子として愛される存在となった。それゆえ彼は、御子の名を用いて、神に直接願い事をすることを許されている。この祈りは、私たちが遭遇する、日常の様々なできごとにおける必要を神に伝えるための実践的な祈りである。それは、私たちの心から出たものであり、人間としての限界を持つ、不完全な祈りではあるが、神は御子のゆえにそれを受け入れてくださり、その願いをかなえるべきかどうかを真剣に考えて下さるのである。そればかりか神は、その祈りにより、そのとき私たちが置かれている状況とそこにおける私たちの感情や所感、要望や願い、そして私たちの成長段階や許容量等をも総合的に考慮して、最善の対応をして下さるのである。
 そして、主イエスが教えられたもう一つの祈りは、「主の祈り」である。これは、変わることのない定形的な祈りである。つまり、神の御心が不動であるように、この祈りもまた不動なのである。それゆえ、それを祈る私たちの心も不動なものとされ、どこまでも神に従うものとなるのである。もちろんこの祈りは、定形的であるからと言って、良く行われているように、その全体を一分程度でさらりと祈る必要はない。返って一行を何十分にも渡って祈り続けることが可能なのである。それは、この祈りの一行々々が、神への賛美と従順、献身の思いを表現したもの、つまり礼拝だからである。
 これらのことを理解した者は、それにより、神の国の住民となる。主イエスは、「これらのことを学んだ者は、自分の倉から、良いものと悪いものを取り出す一家の主人のようだ」と言われた。彼は、御子を通して、神の国においてすべてを相続する。主の祈りは、その先取りでもあるのである。

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