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2010/11/15

洗礼者ヨハネ

第3章
 洗礼者ヨハネは、たぶんすごい人だった。彼は、エリヤの再来であり、母親のお腹にいるときから聖霊に満たされていた。主イエスは、彼についてこう言われた、「女から生まれたものの中で、洗礼者ヨハネより大きい者は興らなかった」と。それゆえヨハネは、エリヤやエリシャより力を持った神の器だったのである。しかし、それにも関わらず、彼は奇跡を行わなかった。それはたぶん、神の方に方針の転換があったのだと思う。つまり、旧約から新約への転換。力から愛への転換。裁きから購いへの転換、等々である。しかし、この転換の主役は、あくまで救い主イエスなのであり、ヨハネは、そこへの道を備える者に過ぎなかったのである。彼は、らくだの毛衣を着て、旧約の預言者エリヤを彷彿とさせる風貌で民衆に向かって語った、「蝮の子らよ、迫ってきている神の怒りを逃れられると思っているのか」と。新約の愛と購いを受け取るためには、旧約の律法が必要である。つまり、一人一人の罪が示され、彼がそれを自覚し、悔い改めるということが必要なのである。すなわち、旧約は目的であり、新約はそこへ至る道であり手段なのである。それゆえ主イエスは、「私は、道であり、真理であり、命である」と言われたのである。そしてこのことは、また同時にノアの日のようである。すなわち、神は、もうエリヤのようにこの世界を裁くためには、預言者を遣わされないと決心されたのであった。そこでヨハネが語った、「悔い改めよ、神の国は近づいた」とのメッセージは、裁きではなく、恵みへ至る道、方法だったのであり、そのためには、派手な奇跡は必要なかったのである。
 彼は、自分がキリストのために道を備える者であることを自覚していたのだが、一方でキリストがどういう人で、その人にどう対応したら良いかについては知らされていなかった。そこで彼は民衆に、彼自身が考えるメシア像を語った、「私の後から来られる方は、私より力のある方であり、手に裁きのために魂を振り分ける箕を持っているのだ」と。ヨハネは、メシアを「世を裁く者」として提示した。しかし、実際に来られたメシアは、人の当然受けるべき神の怒りを一身に負われる購いの小羊だったのである。しかも、メシア自身が自分のところへ洗礼を受けに来たのだった。これらのことは、ヨハネを躓かせるに十分であった。彼は、あのイエスという男は、もしかしたら、来るべきメシアではないかもしれないと思い、イエスの元へ自分の弟子たちを遣わして尋ねさせた。すると主イエスは弟子たちに、「わたしに躓かない者は、幸いである」と言った。しかしヨハネは、たぶんこれらのことに適応できなかったのだろう。彼は、ヘロデ王に対して、一貫して裁きを宣言し続け、その結果捕らえられ、やがて獄中で死を迎えることになるのである。それはもちろん、ヨハネへの裁きではないだろう。ただ、ヨハネには、そのようにして死ぬことが定められていたのだと思う。

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