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2010/11/05

現存在が理解される場としての教会

 これまでボンヘッファーは。超越論哲学と存在論哲学のそれぞれからの真理へのアプローチが、共に単独では不完全なものとならざるを得ず、従ってそれらのコンビネーションこそが真理への接近の可能性を持つこと、そして、その場合にも、然るべき方法によらなければならないことを能動的に主張してきた。そしてその「然るべき方法」こそが、教会という場の想定であると力説した。しかし、この新しい章においては、彼は、非常に慎重に、この「教会という場」が、あくまで一つの前提であることを告白する。それはまさしく、彼の緻密な思考の成せる業である。つまり、今述べたアプローチは、これまで述べて来たことからの自明な結論ではないのである。というのは、超越論的なアプローチであっても、また存在論的なアプローチであっても、それが啓示というものを取り次ぐためには、それが実存的な様式でなければならい。そうでなければ、それは啓示とは成り得ず、単なる一般的な知識に過ぎないものとなってしまう。啓示とは、神から実存へのインパクトなのである。そこで、そこにはもはや「必然」というものは存在しない。たとえ存在論的なアプローチであろうとも、それがボンヘッファーが言うように、「~における存在」という様式を取る場合には、それは存在そのものではなく、その存在と関わりを持つ実存自身の存在形態のことであり、それはもはや実存的な様式なのである。つまり、それはどこまでも信仰の世界の事柄とならざるを得ないのである。そこで、ボンヘッファーが実証したことは、次のことである。つまり、超越論的なアプローチも、またそれの存在論的なアプローチによる補完も、真理への直接的な接近を実現できない。それが真理への接近となるためには、どうしてもそれらのアプローチを通して、実存自身の存在様式へと帰結させる必要があり、そのとき初めて、実存は自分の外部から、すなわち神から自分へともたらされる新しい知識、すなわち真理を享受する可能性を得るのである。
 そして、キリストの体なる教会こそ、それらのことを可能とする場であり、一つの前提なのである。そこには、教理があり、霊的経験があり、制度がある。そして、それらに応答し、その中で自問しつつ行為する実存がある。そのような状態に自分を置くことにより、人間は初めて、自己を認識し、他者を認識する中で、そこに生きて働くキリストを認識し、それらの全体の支配者としての神を認識するのである。

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