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2010/11/03

「~における存在」としての人間

 これまでのところでボンヘッファーは、神と人間の接点としての「啓示」の解釈について、まず超越論からのアプローチとして、それを行為として見た場合の利点と難点について考察し、次にそれを補う目的で、存在論からのアプローチを展開した。彼は、この存在論的アプローチについて、次のように述べている。「第一にそれは、人間の実存を包含しなければならない。そして第二に、連続性における存在を考えることが可能でなければならない」と。この包含性と連続性こそ、超越論的アプローチから存在論的アプローチへの要請であり、それらを用いて、上記の二つのアプローチが組み合わさることにより、初めて啓示の解釈は完全なものとなり得るのである。ボンヘッファーは、この「包含性と連続性」を共に実現する存在論的アプローチの具体的な様式を「~における存在としての人間」と表現する。
 これは再び、信仰の先鋭化へのアプローチである。というのも、人間は、この世界の概念を用いて信仰を実践しているからである。たとえそれが信条であっても、教理や奥義であっても、また教会であっても、それらはみなこの世界のものであり、それらは、人間の意のままに取り扱うことが可能なものである。そのようにして、人間はこの世界の中に自分の依存する場所や事柄を作りだす。それは、ともすると偶像化する可能性を秘めてはいるのであるが、それでもそれは、私たちが信仰に踏みとどまるために必要な手段なのである。というのも、目に見えない物は、人間にとっての実質的な助けにはならないからである。聖書が手にとって見ることのできる神の言葉であるゆえに、それは私たちを霊的に養うことができるのであり、主イエス・キリストが人と成られたのも同様の理由からなのである。しかし、この具体的な手立てを文字通り崇め奉るなら、それは偶像崇拝となってしまう。そこで私たちは、その具体的な手立てへの依存方法について追及しなければならない。その様式がボンヘッファーの言う、「~における存在としての人間」というアプローチなのである。つまり、依存形態の焦点は、「具体的な手立て」そのものにではなく、それに依存しようとする「人間の状態」に置かれているのである。そしてこれは、実存的なアプローチである。超越論的アプローチが徹底して実存的であったように、存在論的アプローチもそうであるべきであり、しかも「包含性と連続性」を提供するものでなければならない。「~における存在としての人間」というアプローチは、まさにそれを提供するものであり、この「~」こそ、「教会」であるとボンヘッファーは言うのである。

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