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2010/11/02

啓示の認識

 ここで「啓示の認識」と言われているのは、これまで考えられてきたように、啓示を通じて、神とか、神のご計画とか、真理とか、つまり神に付随するものを認識するというのではなく、啓示を通じて神ご自身を認識すること、つまり啓示が存在者そのものである場合を言っているのである。もし、全能の神ご自身が認識の対象として、ご自身を啓示しておられるとすれば、その啓示はどのような形態になるだろうか。まず、それが全能の神ご自身であり、すべてのすべてであることから、それは、私たちのすべての認識の基礎であり、根底とならなければならない。しかしこれは、単純なことではない。というのは、私たちが今後、新たに認識するどのようなものごとでも、この認識が基礎であり、根底になっていなければならないからである。つまり、この認識は、私たちの認識のすべてを常に越えたものであり、いわば実質的な先験性、つまりそれにより、私たちが様々なことを認識することができる当のものということになるのである。そこで、それは、「認識」でありながら、私たちには、その全体が認識し得ないようなものである。それは、再び、どのようなものなのだろうか。
 まず、それは私たちと実存的に出会うもの、つまり私たちの存在を脅かすものである。通常、私たち以外の存在、それ自体は私たちを超えているが、存在の認識は、私たちの手中にある。私たちは、その存在を意のままに把握する。しかし、神にあってはそうではない。神は認識の対象となってもやはり神なのである。したがって、それは認識できない認識である。それと共に、それは記述され、私たちの手中にありながら、認識できない認識なのである。それを認識するためには、何か天的な物事の助けが必要となる。それがまさしく「信仰」なのである。すなわち、神を認識させるための啓示、それは信仰によってのみ認識できるものである。その実例はなにかあるだろうか。ボンヘッファーは、「三位一体」がそれだと語る。これは、聖書に記された全能の神ご自身を知るための奥義なのである。

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