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2010/10/31

人生の到達点

 いままでこのブログで、いろいろなことを考えてきた。ここは、私の考えるフィールドだった。自分の部屋にいるのは、本当に気が休まる。そこで、インターネットからピアノソロを聞きながら、とりとめもなくいろいろなことを考えて過ごすのは、なんと幸福なことだろう。でも、ただただ妄想にふけってきたのではないと思っている。自分なりに人生を求めてきたつもりである。そして最近、何かが見えてきたように思っている。それは何か。それは、自分を捨てるということだ。以前、「人生の問い」というカテゴリーで、「人はなぜ生きるのか」ということを書いた。そのとき書きながら発見したのは、「なぜ生きるのか」とか、「何のために生きるのか」と問うのは、「死」というものがあるから意味があるということだった。もし死がなかったら、「なぜ生きるのか」と問うこともない。そこには「生きない」という可能性がないからだ。だから「生きるしかない」。それ以外に可能性はなく、選択の余地はないので、迷うこともない。「迷い」は、「選択の余地」から生じるのだ。しかし人間は、自分の行動や選択を他人から強制されるのには、我慢できない。しかし、「死が無い」つまり「死なない」、「死ねない」というのは、他人から強制されたのではない。聖書によれば、最初はそうだったのであり、後になって「死」がこの世界に入り込んできた。
 そこで今度は、「自分」というものを考えてみた場合、「自分とは何か」とか、「どう生きるか」と考えるのは、自分が存在するからだと思う。そして、「自分が存在する」とは、「自分が独立した存在」、「孤立した存在」であるから、そのように考えるのだろう。たしかに人は、一人一人、別々の体の中に収まっており、孤立した存在である。しかし、もし自分が、ある全体の一部であることを本当に自覚したらどうだろう。そして、その自覚は他人から強制されたのではない。最初からそうだったのであり、自分が自分のことを孤立した存在だと信じ込んでいたということになるかも知れない。そして、そういうことなら、「自分を捨てる」ということも、決して人から強制されてではなく、自分から進んで行えるのではないかと思う。つまり、人が人生で求めているのは、「悟り」であり、それを通じて、他人から強制されるのではなく、自分から、自分の意思で、従来の自分を脱ぎ捨て、新しい、より自由な自分に脱皮することなのだと思う。「快楽」とは、その自由への移行を、何か別の、もっと簡単な手段で代用してしまうことなのではないだろうか。
 そこで、最近の自分についてなのだが、どうも急激に内向的になりつつある。たとえば、ここ2カ月ほどは、毎日聖書を16章づつ読んでいる。これは、私の所属するFGBMFIという超教派の組織で流行っていることなのだが、それを私も熱心に続けている。最初は不可能かと思ったが、やってみたらなんと簡単なことだった。でも読んでいる間は、外界から遮断されて、一人で聖書を読み続けているのであり、それができるのは、やはり内向的になってきたのだと思う。そして、今の感じは、もっともっと内向的になろうとしているように思える。祈りへいざなわれているように思う。いままで、私は祈りをほとんどしなかった。クリスチャンは、祈るべきだと思っていたが、それを実感していなかった。でも最近では、祈りだけが必要なことだと思うようになってきた。でも、まだ祈っていない。今日も、祈りに費やした時間は、まだ5分程度である。でも、「祈り、祈り、祈り」と言われているように、いや、自分の心がそう叫んでいるように感じる。「祈り」とは何だろう。それは、言わば「無駄な時間」である。何にも役にたたない。ただ時間が過ぎていくだけ。もちろん神に向かって祈っているのだけれど。何も期待しないで祈る。何を祈っているのかと言うと、神に告白しているのである。「私は、あなたのものです。私を支配してください。なすべきことを教えてください。いま、こんな仕事をしています。これでいいんでしょうか。次にどうしたら良いでしょうか。あなたを賛美します。すばらしいお方です。全宇宙の賛美を受けるにふさわしいのはあなたです。みこころが成りますように。御名が崇められますように。あなたの栄光が現わされますように。あなたの主権を私に教えてください。あなたの力を教えてください。あなたについて語ってください。あなたをもっと知ることができますように」。ここからは、何も生まれない。この時間は、純粋に無駄な時間なのである。でも、それは私にとってである。私が、この時間から何かを獲得することは無いと思う。それは、純粋に浪費であり、神への捧げものである。だから、そこから私が何かを得ることはあり得ない。しかし、神にとってはそうではないと信じる。神は全能だからである。神にとっては、私が何か世のため、人のために役に立つことをするよりも、この祈りの時間が勝っていると思われる。私は、神に対して、それ以上のことをすることはできないのである。だから、最近そのようになってきているから、内向的になってきているように思うのだ。そして、それは私の人生の転機なのかもしれないと思う。
 どのように変わるのだろうか。それは、すべてを神のために行うようになることかもしれない。しかしそれは、なんという人生の墓場だろう。なんと希望のない人生だろう。人間的には、そのように思う。でも、朝起きたら、神に祈り、何をすべきかを示していただけたなら、それほど効率的な一日はないだろう。私の人生のすべてが、一つの目的のために結集する。自分が今まで得て来た知識、今やっている仕事、家族、友達、それらの一つも捨てる必要はない。すべて今までのままである。ただ一点、神に祈って教えていただくということからすべてを始めるのだ。それは、きっと恐るべきことである。何も知らずして、私の人生は、最高の効率性を実現する。それは、これまでの自分の人生の経験からそのように推測するのである。自分の人生を無駄にして、最大の生産性を獲得する。これまで中途半端にしかできなかった仕事が本格的に実を結ぶようになる。無限の可能性が獲得される。神の可能性である。でも、それには、覚悟を決めなければならない。神が私を助けないかもしれないから。神は、ご自身の栄光にならないことには助けを与えられない。ここにおいて、私の望みは、ただ神のみとなる。私が消え去り、私の人生は神のものとなる。それが、今手もとにある、とりとめのない一つの結論なのである。

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