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2010/10/29

啓示の「存在」

 「行為は存在に従属する」と教義学は言う。たしかに「行為」があるということは、それを行っている者が存在することを示している。行為者がいなければ、行為もまた存在しない。そこで、「啓示」があるということから、啓示の提供者としての神が存在することが保証される。そしてまた。啓示があるということは、それを受ける者であるところの人間の存在をも保証する。しかも、その啓示の内容が一人に向けてではなく、複数の人に向けて語られているならば、それにより、この世界に自分以外の他者が存在することもまた保証されるのである。それならば、この存在を保証するところの啓示そのものも存在概念により解釈可能なのではないか。ボンヘッファーは、それには3つの形態が想定できると言う。
 1つ目は、教理としてである。しかし、もし教理というものの中に、すべての啓示が含まれ得るとすれば、神自身が教理によって完全に記述されることになる。これは不可能である。というのは、そのような状況においては、神と人との実存的な出会い、すなわち「従うか否か」、「信じるか躓くか」というような関係は起こり得ないからである。そこで、このような状態は、啓示の概念が変質してしまっている状態と言える。啓示の本質は、神と人との実存的な出会いの中にあるからである。2つ目は、心理的な経験としてである。これは、「教理」に比べて、幾分か実存的な香りを放つもののようである。しかし、心理的な経験は、誰か特定の人の心の中で起こるのであり、それはその人の心に包含されてしまう。つまり、すべての実存的な出会いも彼の心の中だけで起こることになってしまうのであり、これもまた不合理である。3つ目の可能性は、「制度」としてである。最初の2つが、共に人間存在により制御または包含されてしまう性質のものであるのに対して、「制度」は、逆に人間存在を包含するものである。それは、確かに人間が設定するものではあっても、人間はそれに規定されるという意味で、人間を超えているところがあり、もしたとえ人間の意識の外においてであっても、それが一つの制度に具現化され、設定されるならば、その制度を通じて、あるはその制度の中で、人間が絶対者に実存的に出会うということがあるいはあり得るかも知れないのである。しかしこれもまた不可能である。というのは、制度というものは、それが人間が作るものである以上、また人間がそれに適応可能なものだからである。最初から人が適応できないような制度を人間は作ることをしないに違いない。それは、人には思いつかないことである。したがって、提示された3つの可能性のいずれも啓示の具現化とはなり得ず、啓示は存在論的には解釈されないことになる。
 それでは、これらのことから、どのように考えるべきであろうか。啓示への行為概念による、つまり超越論的なアプローチは、それ自体、全能の神を指し示すものであるが、それが人間の手の届くものとなるために存在論的なアプローチを必要とした。しかし、存在論的なアプローチは、それをあまりにも手近に引き寄せすぎて、神を天から引き下ろすことになる。いったいどのようなアプローチがそれを実現することができるのだろうか。
 ボンヘッファーは語る、「むしろ両者は、存在者と非存在者との二つのものを自らの中に包含し、同時に、人間(信仰)を通して人間自身の思惟形式を自らの中で止揚する一つの存在様式の中で考えられなければならない」と。彼が、この「一つの存在様式」という言葉で、「キリストの教会」を想定していることは、何となく明らかであろう。

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