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2010/10/28

決断する人間

 これまでのところでボンヘッファーは、「啓示」というものを「行為」に関する用語で、すなわち「行為概念」で解釈しようとしてきた。そしてその目的は、信仰概念の尖鋭化であった。しかしそのようにして、信仰自体の純粋性は確保されるものの、それを行う当の人間存在の理解については、困難な状況に直面せざるを得なくなっている。というのも、神と人との関係を純粋行為だけから理解しようとすると、その関係は、行為というものの性質上、一つの行為から次の行為への必然性を持たず、ずたずたに引き裂かれてしまうからである。そこで、人間存在の根底に、この神との関係を置こうとすれば、人間という実存の連続性が保てなくなってしまうであろう。しかし、連続性のない人生にいったい意味が見出せるだろうか。というのも信仰は、実に一つの連続性なのだから。そこで、何としても人間という実存の歩みにおける連続性が確保されなければならない。しかし、行為概念で啓示を、すなわち神を解釈しようとする限り、この断続性から解放されることは困難に思われる。そこで、ボンヘッファーは、ここで「決断」なる概念を持ち出す。「決断」とは、「行為の一つの原因」(たとえそれが突発的なものであっても)であり、それ自体行為と考えられながらも、行為そのものではなく、その「原因」であるところに、どこか静的な雰囲気が感じられるゆえに、存在的な側面をも持っているように思われる。そして「決断」という概念は、「行為」という概念に比べて、そのようにある意味で弱められた性質を持つ代わりに、また他方においては、行為に比べて、より「意思」に接近した概念であることから、実存的にはいっそう強められた概念とも言えるのである。というのは、ひとたび決断がなされれば、その後の行為は、ある種必然的に行われると考えられるからである。
 しかし、啓示の観点、すなわち神の視点に立って考えれば、人間が、自分が罪の中にあるかまたは恵みの中にあるかということを、そのときどきに与えられる啓示によって断続的に知るにしても、彼の状態そのものは、断続的ではなく、継続的に罪の中にあるかまたは恵みの中にあるということなのであり、ここになにがしかの実存的な連続性が潜んでいると考えられる。このことは、「回心」という概念によって表現される。たとえばバルトにおいては、回心した新しい私が、古い私が消え去ったまったく新しい理想形式として提示される。そして、この理想形式としての私は、まったく神に帰依してていることにより、連続性を持っている。しかし、その理想的な私と現実の私の関係は、どのようになっているかが今一つ判然としない。また、ブルトマンにおいては、古い私と新しい私は、終末論的な歴史概念により連続している。しかし彼の場合、人間存在は、歴史性の中で回心はしても、根本から新しく作り替えられることはなく、依然として罪の中にあることにより、常に誘惑にさらされ、堕落と背信の危険性の内に置かれているのである。そのような状況において、人間の行為に連続性というものを想定すれば、ともすると行為概念自体が曖昧になり、その結果、信仰の概念も十分尖鋭なものではなくなってしまう危険もあるのである。
 以上は、行為という概念による信仰の尖鋭化における帰結であり、それは、存在論による信仰へのアプローチへ、なにがしかの要請をするものであるように思われる。

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