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2010/10/21

啓示の偶発性

 真理の探求における哲学の2つのアプローチ、すなわち超越論的なアプローチと存在論敵なアプローチのそれぞれに関する省察を述べたボンヘッファーは、今度は純粋な神学概念である「啓示」に関する探求を開始する。それが超越論的に、すなわち「行為」として探求されるべきか、それとも存在論的に、すなわち「存在」として探求されるべきかと問うのである。「啓示」は、その定義上、それが純粋に人間存在の外から来るという意味で超越的なものである。そして「行為と存在」も共に人間存在に対して超越的である。行為は、「決して説明されず、理解されるのみである(ディルタイ)。同じく存在も決して証明されず、指示されるのみである」と彼は言う。
 啓示を行為概念により解釈するとは、それをダイナミックなものとして受け取ること、すなわち、啓示を与える神という生きた存在を前提することである。「神は、純粋行為として理解される」とボンヘッファーは言う。その意味は、神と人との関係が、すでに獲得されたものや十分な確率性を持って期待されるようなものではなく、むしろその継続性が全面的に神の主権(すなわち自由な行為)にかかっているということである。さらにもう一つのこととして、そもそも啓示が与えられるということ自体も神の自由な意志決定に依っているのである。
 以上のように啓示を捉えることは、人間が考え出す様々な間違った教えから信仰を守るために有用なことである。間違った教えとは、神の存在を否定し、その代わりに哲学や科学を真理の位置に据えるものだからである。しかし、神は、何ものにも制約されず、完全に自由である。神は人間の思い通りにはならない。その偶発性を表現するのに、「神は純粋行為である」という命題は、非常に有効である。そして、これは神の自由を「形式的(機能的)」に捉える方法である。しかし、神が自由に行為される背景には、人間には知り得ないが「神の予定」というものがある。これは、存在的な概念と考えられる。そこで、啓示というものを理解する方法には、上記の「形式的(機能的)な理解」の他に、もうひとつ「内容的(存在的)な理解」が考えられる。というのは、啓示は、神から人へと伝えらえるものであり、それは「内容」だからである。そして、もし人が「神の啓示」に関して、何か「知る」ということを許されることがあるならば、それは、もちろん「内容的理解」以外にはないのである。
 ボンヘッファーは言う、「もしこの内容的理解こそ神の自由についての真の理解であることが示し得るならば、われわれは純粋行為としての啓示理解によって、存在の概念へと向けられる。しかし、この立場から、啓示の新しい理解と共に、神学体系の問題も全く異なった展望のもとで提起され、全く異なった方法で解決を見出すであろう」と。彼が、キリストと教会の関係を念頭に置いているのは明白である。そしてそれは、考えられ得る最も保守的でかつ革新的な彼独自の方法論なのである。

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