« 2010年9月24日 | トップページ | 2010年10月21日 »

2010/10/05

ツアラトストラを終えて

 これで、ツアラトストラの上下二巻を読み終えたことになる。最初はどうなることかと思ったが、何とか最後まで読み終えることができたのは良かったと思う。しかし、何かこう不完全燃焼のような気分を捨てきれない。もしかしたら、今一つ自分は、ツアラトストラを、ニーチェを理解し尽くせなかったのではないかという危惧である。とは言っても、私はツアラトストラが割と好きである。彼の生き方には、共感できるものがある。それは、彼が徹底して、世界内存在者として生き通したことである。これは、実に誰も成しえなかったすばらしいことであり、ニーチェの天才的なところだと思う。そもそもこの世界の謎を究明しようという野望を持つ人々の内、いったい誰が、自ら世界内存在者として生きようとあえて決意するだろうか。それは、強いて言えば、世界を創造し支配している神が自ら世界内存在者となって、この地上に降られたことに匹敵する驚くべきことであり、ここにツアラトストラという作品の類まれなすばらしさがある。
 しかし、その結末はなんと奇異なものだろう。「この世界のすべては、永遠に同じことを繰り返す」という永劫回帰思想をいったい誰が好ましいものと思うだろうか。しかしそれが、すばらしい夢を求めて鷲のように旅立ったツアラトストラの結論なのである。それは、大いなる矛盾を含んでいる。と言うより、それは矛盾そのものである。それは、この世界が無目的であることを示しており、それは同時に、それを信じる者の実質的な死を示している。そう言えば、ツアラトストラの初期の推敲においては、ツアラトストラは、ついに永劫回帰思想を人々に告知して、自ら死にゆくことになっていたという。その死は、いったい何のためなのか。彼は、キリスト教的なすべてのものへの反目から始めた。それが、もしかしたら人が考え出したものであり、ただ人を騙して盲従させるために仕組まれた、甘い夢に過ぎないと疑われたのであり、そのように疑う人が世に一人もいないことを彼は驚き怪しんだのであった。そして、彼は、それを証明するためには、何か理論的な哲学思想を考えだし、それを実世界の中で実験的に検証するという確率論的なアプローチをとらなかった。返って彼は、この世界の内的存在者として、自らこの世界を裸一貫で生きることにより、実証的に真実を素手でつかもうと決意したのであった。
 私の願いを言えば、ニーチェが最後まで真実を求めて、雄々しく戦い、それを勝ち取って欲しかった。しかし、神無しに全宇宙を相手に戦った彼を待ち受けていたのは、結果的には、狂気であった。それは、何を示すのか。軽々しい言及は控えたいが、彼は、キリスト教に対して、一つの重大な問題提起をしたと私は信じている。それは、信仰者が自分の信仰をどのように規定しているかということである。信仰者は、ニーチェのような姿勢で神を信じるべきだと私は思う。そう、彼のようにすべてを疑った上で、「それでも私は神に従う」と言うべきなのだ。聖書の中に、そのように自分の信仰を規定している者たちがいる。それは、「シャデラク、メシャク、アベデネゴ」である。彼らは、火の燃える炉の中に投げ込まれようとしたとき、「たとえ全能の神が助けて下さらなくても、私たちは神を信じる」と告白したのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

しるし

 朝になるとツアラトストラは、彼の寝床から跳び起き、腰に帯を締めて旅支度を整え、勇ましく彼の洞窟から立ち現れた。彼が再び旅立ちを決意したのは、昨日彼を襲った驚嘆すべき出来事の勢だったのだろう。彼はそのとき、今や世界は完成したことを感じていた。そして、その徴候が間もなく彼の元に臨むことを確信したのであった。ただ一つ不本意であったことは、彼によって、初めて自分を超克するということを知ったあの高等な人間たちが、まだ依然として超人にはほど遠い状態であることであった。事実、彼らは、ツアラトストラの旅支度も知らずに、まだ夢の中に陶酔しているのであった。そこで、とりあえずツアラトストラは、「この連中はわたしの本当の道連れではないのだ」と考えておくことにした。「彼らは、わたしの酔歌には聞き惚れるが、しかしわたしに傾聴する耳、聴従する耳が、彼らの五体には欠けているのだ」と。
 しかしそのとき、不思議なことが起こった。突然彼の周りに無数の鳩がやってきて、飛び回り始めたのであった。また、一匹の獅子がやってきて彼の足もとに身を横たえ、頭を膝にすり寄せてきた。それは、本当に起こったことなのか、それともツアラトストラの心がそれを感じただけなのか、それは誰にも分からない。しかし、「しるしが来た!」とツアラトストラは語り、彼の心は変化した。ツアラトストラは、ぼんやりと放心状態でいたが、やがて彼に記憶がもどってきて、昨日と今日のあいだに彼に起こった一切のことを、一瞬にして理解した。それは、あの老予言者が彼に対して予言したことであった。彼は言った、「おお、ツアラトストラよ、わたしは、あなたをあなたの最後の罪へ誘惑しようとして来たのだ」と。「わたしの最後の罪として、わたしがこれまで保留しつづけてきたのは、いったい何なのか」、ツアラトストラは、しばらく自分に沈潜し、彼の前にある大きな石の上に腰をおろしていたが、突然跳び上がって言った、「同情だ!高等な人間に対する同情だ!」と。
 ところで「同情」とは何だろう。それは、「行為無き哀れみ」、「無責任な共感」である。彼は、世界内在者であるゆえに、自分の行為を完全に保証すること、それに責任を持つことができないのである。実にこれが内在者の限界であり、宿命でもあるのである。それゆえツアラトストラは、それさえも超克しなければならなかった。そして、彼がそれを超克したとき、彼は実に彼自身を失ったのである。
 ツアラトストラは、「人間は、超克されるべき何ものかである」と語り、自分を超え出ようとした。そしてそのためには、彼の最後の砦、「同情」さえも捨て去る必要があったのである。しかしこの「同情」こそは、彼が世の喧噪から逃れて身を寄せていた彼の洞窟から、再び彼を連れ出したところの一つの衝動であった。彼は太陽に向かって、「おまえ、大いなる天体よ、幸福をたたえた深い目よ、もしおまえが、照らしてやる者たちを持たなかったら、一切のおまえの幸福はどうなることであろう」と語り、そこを出て、あえて下界へ赴いたのであった。しかし今、彼は最後の誘惑に打ち勝ち、それ「同情」さえも超克した。しかしそれでは、彼は、自分が到達した真理を人々へ伝えるという衝動さえも失ってしまったのではないのか。しかしその前に、彼が到達した真理とは何だったのか。それは実に「永劫回帰」すなわち、この世界は無目的であり、同じことを永遠に繰り返すという仮説だったのである。
 「神は死んだ」とツアラトストラは語り、一切のキリスト教的なものを捨て去った。その目的は、彼が一切の誤謬から自由になり、真に生きる者となるためであった。しかし、彼がそれを実行した結果はどうであったのか。それは実に、「彼自身の否定」、「彼自身の死」でさえあったのである。もっとも、彼の目的は、幸福を求めることではなくなっていた。彼の存在目的は、彼自身の事業を成し遂げることであった。しかし彼は、世界内在者としてそれを追求していたのであり、したがって彼自身の事業とは何であるかについて、未だ知らなかったのである。そして、幾多の遍歴を重ねるうちに、次第に確信を深めてきたのだろう。それが、ある恐ろしい概念「永劫回帰」に行き着くということを。
 「よし!かくあるも、今や果てた。わたしの苦悩とわたしぬ同情、それになんのことがあろう。いったい、わたしの志しているのは、幸福を得ることだこうか。わたしの志しているのは、わたしの事業を成就することだ!」、ツアラトストラは、かく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月24日 | トップページ | 2010年10月21日 »