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2010/09/23

酔歌

 彼らはそれぞれ、洞窟の外へと歩み出た。ツアラトストラ自身は、最も醜い人間に彼の夜の世界と大きな真ん丸い月と洞窟のそばの銀色の滝とを見せようと、彼の手を引いた。そのようにして、高等な人間たちは、みな相寄りながら静かに立っていた。
 そのとき、最も醜い人間がまたのどと鼻を鳴らし始めながら言った、「皆さんがた、わたしの友人たちよ。あなたたちはどう思うか。この一日のゆえに、わたしは初めて、全生涯を生きてきたことに満足しているのだ。この地上で生きることは、そのかいのあることだ。『これが、生であったのか』と、わたしは死に向かって語ろう」と。そのとき、彼の語ったことを聞いた、それらの高等な人間たちは、突如として自分たちの内の変化と回復を自覚した。彼らは、ツアラトストラの方へ跳んで行って、それぞれの仕方で大げさに喜びと感謝を表現した。
 見よ、彼らの心は、今や決定的な変化を遂げた。しかし、そのときツアラトストラの中では、もっと大きな変化が起こっていた。彼は、さながら酔った者のような様子でその場に立っていた。すなわち、彼の眼光は消え、彼の舌はもつれ、彼の足はよろめいた。彼は、自分自身の変化に驚いていた。それは、彼自身の変化ではあったが、彼自身から由来したものではなかった。彼は、初めて実際に知ったのであった、人間が自己を超克することができるということを。今まで生きてきた世界を超越し、その外へ出ることができるということを。それは、ほんの小さな実例ではあったのだが、彼は自分自身の目でそれを見たのであり、そして何よりも、彼自身が、そのような劇的な変化の原因となり、創始者、また師となったのである。それは、何を意味するのか。それは、すなわち、彼が信じていたあの恐ろしい思想「永劫回帰」の実在性を彼が証明し、彼自身がそれを生き始めた、つまり、彼自身が永劫回帰思想の本質となったということである。それゆえ世界は、今初めて完成したのであり、今やそれを裏付ける、何か更なる劇的な変化が彼を待っているのである。ツアラトストラ自身は、それを恐れていた。かつて自分は、すべてのキリスト教的なものに背を向けて、それらを離れ去り、それらの外で生きることを決意し、その実践に努めてきた。しかし、そのようなことが果たして可能なのかどうか、そして、そのことの結果は、どうなるのか、等々は全くの未知数であった。すべては、架空の世界であり、彼は自分の身を投じて、その実験に没頭したのである。その理由は、彼はただ、そのときの彼の状態の延長では、彼の人生は、そしてこの世界のすべては空しいことを確信したのであり、それからの逃避が彼をそのような行為にいざなったのであった。
 彼は、超越者としてすべてを知っていたのではなく、返って内在者として、自分の限界を素直に認識し、その可能な範囲で、確実なところから出発し、空想に走らず、世の人と共に地道に苦しみ、悩み、それらを克服し、自分の信じるところを展開したのであった。それは、今まで誰もあえて成さなかったことであった。誰も、そのような一見無力、無駄、無意味に見える、純人間的な努力によっては、真理へ到達できないと思った。しかし、ツアラトストラは、自分の信じるところをひたすら歩み、一つの結論に到達した。それは、人間は、神によらず、内在者として、生き、死ぬことができるということであった。神に造られた人間が、神によらず、被造物として、神から離れながらも、誇り高く、尊厳的に生き、死ぬことができるということであった。そして、その原型がツアラトストラであり、彼の信じた人間の姿、「超人」であった。「人間は、超克されるべき何ものかである」とツアラトストラは語る。そして、彼はまさにその「超人」に到達したのであった。
 押し寄せる内的衝動に圧倒され、意識を失いかけていたツアラトストラは、高等な人間たちの腕に抱きかかえられているあいだに、次第に少しばかり我に帰り、敬慕と憂慮をいだいている者たちの群れを両手で制止し、しばらくの沈黙の後に、指を口に当てて言った、「来たれ!」と。彼が呼びかけたものは何だったのか。それは、実に彼自身であり、そしてまた同時に、彼自身ではなかった。彼は、ついに彼の追い求めていた「超人」に自ら成った。しかし彼は、実に内在者として、内在者に徹して、それを追求していたのであり、その意味で、彼はその成った当のものとは、依然として別の存在なのである。なぜなら、彼は内在者であるから。「人間は、超克されるべき何ものかである」。しかし、もし彼が自分自身を本当に完全に超克してしまったなら、彼は彼自身ではなくなる。彼は、内在者ではなくなるのである。それゆえ、彼は永遠に彼でなければならない。すなわち、彼によれば、世界は永遠に繰り返さなければならない。「永劫回帰」であり、完全に「無目的」でなければならないのである。
 「世界は深い、昼が考えたより深い。苦痛は同時にまた快楽なのだ、呪いは同時にまた祝福なのだ、夜は同時にまた太陽なのだ、立ち去れ、しからずんば、そなたたちは学ぶべきだ、賢者が同時にまた阿呆であることを」、ツアラトストラは、かく語った。

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