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2010/09/16

砂漠の娘たちのあいだで

 一同と握手し終わったツアラトストラは、再び外の清涼な空気が吸いたくなり、洞窟を出て行こうとした。すると、「ツアラトストラの影」と自称していたかのさすらい人が叫んだ、「立ち去らないでくれ。わたしたちのところにいてくれ。さもないと、あの古い息苦しい憂愁が再びわたしたちを襲うことだろう」と。
 彼らは、ツアラトストラの元に身を避けて来ていた。彼らの現実を厭い、そこから解放されることを求めて。しかし彼らは、再びそこへ舞い戻る可能性をまだ持っていたのである。彼らは、ツアラトストラと対面して、彼らの厭うべき現実からの解放を経験した。しかし、もし彼らがその師ツアラトストラの元を離れるようなことになれば、彼らはひとたまりもなく、かつて彼らが打ち負かされていた誘惑に負け、元の生活へと戻ってしまうに違いないのであった。それは、彼らの自己刷新の動機が、勇気ではなくむしろ恐怖であり、彼らの行為が冒険ではなく逃避であったからであり、そのような受動的な決心は、ほんの小さな試練の前にもあっけなく崩れ去ってしまうものなのである。
 恐怖に駆られて逃避する者、彼には、新しい救いを求める願望がある。それは、彼にとっては、新しい希望に輝いて見える。しかし、それが自分から出たものではないことを彼は十分に自覚していない。だから、その救いが自分の前から奪い去られると、たちまち彼は希望を失い、元の誘惑や恐れに取り囲まれた状態に舞い戻ってしまうのである。ツアラトストラの洞窟に集まっていた高等な人間たちは、みなそのような状態であった。彼らは、多かれ少なかれ、何らかの恐怖に駆られて現実から逃避しているのであり、その窮境を訴える声がツアラトストラの耳に聞こえていたのであった。彼らは、ツアラトストラの提唱する生き方の中に自分が求めていた救いを見いだし、そこに自由への希望を抱いていた。しかし、彼らの行為自体は、能動的なものではなく、返って受動的なものであり、冒険ではなく、逃避であった。つまり彼らは、ツアラトストラに憧れていたが、彼のように生き始めようとは思っていなかったのである。「ツアラトストラの影」と自称していた者も、やはりツアラトストラと共に、まだ誰もしたことのない冒険をしようなどとは、毛頭考えなかった。そればかりか彼は、かつて味わった快楽の思い出を執拗に心につなぎ止めていたのであった。
 ツアラトストラが提唱する冒険は、自分を失うほどに価値のある、自分を賭するものである。この「自分を賭する」ということに、人は一つの美を見いだし、それに憧れる。しかし、同じ「自分を賭する」という行為であってもその賭する対象が一時的な快楽のような価値のないものである場合には、その行為自体も価値のないものになってしまうのである。そこで、重要なのは、自分を賭すること、冒険することそれ自体ではなく、「何のために」ということなのであり、もはや砂漠のような意味のない快楽の繰り返しに、決然と背を向ける勇気なのである。
 「砂漠は成長する。もろもろの砂漠を蔵する者は、わざわいなるかな」、ツアラトストラは、かく語った。

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