« 2010年9月11日 | トップページ | 2010年9月16日 »

2010/09/15

科学について

 年老いた魔法使いの演じた「憂愁の歌」のパフォーマンスにより、その場にいた面々は、正に憂愁の中につき落とされてしまった。彼らにはもはや、ツアラトストラから聞いたことが信じられなくなってきたのであった。しかし、彼らの内の一人、「精神が良心的な者」だけは、その他の者とは異なっていた。彼は言った、「あなたがた、自由な魂の持ち主たちよ、あなたたちの自由はどこへ行ってしまったのだ」と。
 「自由とは何か」ということは、永遠の課題かもしれない。自由とはなにか。それは「何かあるもの」からの自由である。つまり、現在は自由ではないのであり、そうでなければ、自由という概念もまた無かったであろう。しかし、何からの自由なのか。世界からではない。この世界に住むならば、必然的に様々な事件に遭遇する。それは、この世界に住むことの宿命であり、それがこの世界に住むということなのである。それなら、そこにおける自由とは、精神的な自由ということになるだろう。そして、それこそがそこにいた者たち皆の求めているものだったのである。しかし再び、それは何からの精神的な自由なのか。つまり、それは能動的なものなのか、それとも受動的なものなのか。すなわち、冒険なのか逃避なのか、ということが問題となる。
 年老いた魔法使いの主張に対して、その精神が良心的な者は、「自由の原動力は恐怖」である、すなわちそれは「受動的なものであり、逃避である」と主張した。ところが、そのとき丁度入ってきて、彼の主張を聞いたツアラトストラは、それを否定して言った、「恐怖は、われわれ人間にとって、むしろ例外的なことなのだ。それに反して、勇気こそ、冒険こそ、不確実なものや敢行されたためしのないものに打ち興ずることこそ、要するに勇気こそが、わたしには、人間の前歴の全体をなすように思われる。人間は、最も荒々しく最も勇気のある動物たちから、この動物たちの諸徳の一切を、嫉妬に駆られて略取し、略奪した。そうして初めて人間は、人間になったのだ」と。このツアラトストラの言葉により、そこにいた皆は、あの年老いた魔法使いも含めて、再び元気付いた。そして彼らは、ツアラトストラを賞賛した。ツアラトストラは、彼らの間を巡って、悪意と愛を込めて彼の友人たちと握手した、あたかも、一座の者たちに何かを償い、謝罪しなくてはならぬ人のように。
 彼らは、ツアラトストラを理解しなかった。確かに彼らはツアラトストラに憧れていた。しかし彼らは、ツアラトストラについて、何も理解していなかったのである。彼が何を知っており、何を知らないかということを。また、彼が何を欲し、何を欲しないかということも。そして、まして彼のようになろうなどとは、実際には、考えもしていなかったのだ。
 「この勇気、それがついに洗練され、聖化され、精神化されたのだ、ワシの翼とヘビの賢さをそなえたこの人間的勇気、それが、わたしの思うには、今日・・・」、ツアラトストラは、かく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年9月11日 | トップページ | 2010年9月16日 »