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2010/09/08

高等な人間について

 「高等な人間」とは、一言で言えば、「気づいている人」と言うことができるだろう。何に気づいているのかと言うと、「偽り」、「まやかし」、「曖昧さ」等々について気づいているのである。自分が生まれてから今まで、それらに惑わされていたことについに気づき、それらから解放されることを目指しているのである。しかし、それらの高等な人間たちは、すでに気づいていながら、いまだそこから解放されているのではないのである。ツアラトストラの元にやってきた、あの奇妙な連中もそういう意味で、「高等な人間」であった。そしてそれは、決してつまらないこと、どうでも良いことではなかった。むしろ、人間がそのような意識状態にまで成長することは、まれなことであり、この「高等な人間」は、ツアラトストラが提唱する、人間の究極的な姿、すなわち「超人」へと至る上で、必ず通らなければならない重要な通過点なのである。そこでツアラトストラは、彼らを歓迎し、祝福し、この饗宴において、彼らに対して励ましと導きの言葉を語った。
 この世界に対する人間の立場には、大きく二つが想定される。一つは、この世界の目的というものを想定する立場である。それは、伝統的な立場であり、絶対的な価値観を要求する。この目的の創始者が神であり、その目的に沿うことが善、それに反することが悪である。もう一つの立場は、世界の目的というものを想定しない立場であり、この立場にとっては、すべて目的と呼ばれるものがあれば、それは悪であれ、まやかしであり、偽りであり、その他いろいろのものなのである。
 もしこの世界に神が存在しなければ、目的もまたないであろう。そこで、この世界の目的というものを想定しない者は、「神は死んだ」と主張する。そして、この世界の中に「目的」と呼ばれるものがあるとすれば、それはすべて、人間が自分の利得のために考え出したものだと考えるのである。そして、この考えの前には、キリスト教の自己義性的な愛でさえ、キリストが自分の教えを広めるために考案した創作ということになるのである。そして、これに気づいてしまった人、すなわち「高等な人間」は、それらを欺瞞と断じて、そこから逃れ出ようとするのである。
 この状態の「高等な人間」は、まだ真理に至り着いているというわけではない。ただ、自分の今の状態は、本来の状態ではないので、そこから逃れようとしているのである。しかし、それでは、いつになったら完全な知識に到達するのだろうか。否、いつということは分からない。そもそも、完全な知識などというものがあるかどうかさえ彼は知らない。彼にとっては、そのようなことは、どうでも良いことなのである。彼にとって重要なのは、彼自身が世界に対してどう振る舞うかということであり、それがすべてなのである。彼にとっては、この世界は、完成に向かっているのでも、滅びに向かっているのでもない。それは、すでに完成されたものなのであり、世界の目的などというものは、たわごとであり、むしろ、完成されるべきものは、彼自身の方なのである。
 「神の前では。だが、この神はもう死んだのだ。そなたら、高等な人間たちよ、この神はそなたたちの最大の危険であった。彼が墓のなかに横たわってよりこのかた、そなたたちは初めて復活した。今や初めて大いなる正午がやって来るのだ。今や初めて高等な人間が主人となるのだ。そなたたちはこの言葉を理解したか、おお、わたしの兄弟たちよ。そなたたちは驚愕している。そなたたちの心臓がめまいを起こしているのか。そなたたちは、ここに深淵が口を開く思いなのか。そなたたちは、ここに地獄のイヌがほえる思いなのか。さあ、さあ、そなたら、高等な人間たちよ。今や初めて、人間の未来という山が陣痛に苦しんでいる。神は死んだ。今やわれわれは欲するのだ。超人が生きんことを」、ツアラトストラは、かく語った。

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