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2010/09/01

挨拶

 ツアラトストラは、かの「窮境を訴える叫び声」の主を、長時間にわたりむなしく捜し求め、歩き回った後、午後遅くなって、再び自分の洞窟に戻ってきた。すると驚いたことに、そこには、その日彼が出会った、あの奇妙な者たちが勢ぞろいしていたのだった。彼らは皆、ツアラトストラを慕い、彼の帰りを心待ちに待っていたのであった。
 ツアラトストラが彼らへの歓迎の挨拶を述べると彼らの中にいた、あの一人の王が、ツアラトストラを賞賛し、自分を含め、ここへ集まった者たちは皆、ツアラトストラに憧れ、彼のようになりたいと思っている者たちであり、彼と心を同じくする、彼の同士であるというようなことを述べた。すると、それまで柔和に微笑んでいたツアラトストラの様相は一変し、急によそよそしくなった。彼は言った、「そなたたちは、わたしの遺産と名とが帰属すべき者たちではない」と。また言った、「それとは別の者たちを、わたしはここなるこの山中で待っているのであり、彼らがやって来ないかぎり、ここからわたしの足をあげる気はない。わたしが待っているのは、いっそう高等な者たち、いっそう強いものたち、いっそう無敵の者たちだ、身体も魂も端正にできている者たちだ。笑うシシたちがやって来なくてはならないのだ」と。
 ツアラトストラの名前は、いつしか人々に知れ渡るようになり、彼の教えを喜ぶ人々の群れが、あちこちに起こされてきた。彼らは、山中のツアラトストラのところにまで押し寄せてきて、彼をその目で見、声を聞き、その手に触れたいと願った。彼らは、ツアラトストラに同調し、その教えに喜んで耳を傾けた。しかし彼らは、ツアラトストラのように生きることを決意しようとは思わなかったのである。そのような彼らに、ツアラトストラは語った、「そなたたちのように、自分自身が、病める華奢な足で立っている者は、自分でそうと知っていようが、あるいは自分に隠していようが、何よりも、いたわられることを欲するのだ。だが、わたしの腕とわたしの足を、わたしはいたわりはしないのだ。わたしはわたしの戦士たちをいたわらないのだ。どうしてそなたたちがわたしの戦争に役立ちえようか」と。
 今日の教会においても、主イエスの言葉を宝のように大切に心に蓄えて生きている人は少なくないかも知れない。しかし、それらの人たちが、ただ言葉を記憶しているだけで、実際にそれを実行するということがないなら、その人は、この日にツアラトストラの洞窟に集まった人々と同じではないだろうか。また、聖書の中に記された、主イエスの宣教の生涯を読み、それを重々しく受け取り、彼の愛と犠牲により救われたと心から感謝していながら、自分自身は、誰にも福音を語ったことがないとしたら、これほど理解に苦しむこともまたとないのではないだろうか。また、主イエスの弟子になりたいと公言しながら、自らは、社交に長じ、多彩で裕福な生活を楽しんでいるなら、これほど滑稽なこともまたとないだろう。私たちは、主イエスの名声ではなく、彼の貧しさと死とを身に纏う必要があるのである。
 「おお、わが親しき客人たちよ。そなたら、奇妙な者たちよ。そなたたちは、わたしの子供たちのことを、まだ何も聞いたことがないのか。また、彼らがわたしのもとへ至るべく途上にあることを。わたしのもろもろの園のことを、わたしの至福の島々のことを、わたしの新しく美しいたぐいの者たちのことを、是非ともわたしに語ってくれ、なぜそなたたちはそういうことをわたしに語ってくれないのか。わたしがそなたたちの愛に請い求めるのは、こういうみやげ物だ、そなたたちがわたしの子供たちのことをわたしに語ってくれることだ。彼らのためにこそ、わたしは富んでいるのであり、彼らのためにこそ、わたしは貧しくなったのだ。わたしは何をなげうたなかっただろう。わたしは何をなげうたぬわけがあろう、一つのものを手に入れるためならば、すなわち、これらの子供たちを、わたしの意思とわたしの最高の希望とのこの生けるがままの植樹、これら生命の木々を、手に入れるためならば」、ツアラトストラはかく語った。

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