« 2010年8月26日 | トップページ | 2010年9月1日 »

2010/08/28

正午に

 ツアラトストラは、キリスト教の諸前提を否定し、「神は、死んだ」と宣言して、真理探求のための遍歴を続け、独自の世界観に到達した。それは、自己を世界内在者として認識した上で、その超克を目指すものであった。そしてその場合、自己の超克とは、内在者である自己が外界を超越するというのでも、また探求し尽くすというのでもない。むしろそのような、何ものかを前提とした、特定の価値観や目的論から自由となり、返って内在者という自己のあり方を全面的に肯定し、自己を包含する世界と同化することを目指すのである。それは、空間的には、様々な場所へと旅を続ける中で、世界に対する自己のあり方を把握し、全肯定的にその中に留まる決意へと飛翔すること。さらに、時間的には、自己の人生を回想し、過去と現在の自己の状態のすべてを受け入れ、将来も含めて、全肯定的にその全貌を受け入れることである。それゆえそこには、善悪の基準や理想を始め、倫理的なものも存在しない。未来に期待されるものと言えば、彼のすでに把握したものも含めた一つの全体的なものの永遠の繰り返し、すなわち永劫回帰なのである。それを退屈と見なすものは、人間の我欲の作り出す、辺境な目的意識であり、返ってそれらから自由となり、この世界の真の目的を把握し、それと同化することこそが求められるのである。
 しかし、それはいかにして可能だろうか。というのも、彼自身がこの世界の内在者であり、この世界の構成員の一人であり、決して統治者ではないのだから。ツアラトストラが提唱することが真理であるとしても、それが確かなものになるためには、せめて誰か特定の個人に、この世界の全貌が提示され、彼がそれを把握し、全面的に受け入れるというようなことが起こらなければならない。そしてそれは、ある選ばれた人に起こるのである。例えば、ツアラトストラのような者にである。
 ツアラトストラは、とある老木の前で立ち止まった。それは、一見、木とは見えないほどに、ブドウのつるがその全体を覆っていた。彼は、そのブドウの実で、喉の渇きを癒したいと思ったが、疲れていたため、その根本に身を横たえて眠り込んでしまった。そして彼は、まどろみながら、その老木を抱擁しているブドウの愛を感じて呟いた、「静かに、静かに。世界は今まさに完成したのではないか。いったい、わたしの身に何が起こっているのか。わたしの奇妙な魂は、なんと長々と身を伸ばし、うみ疲れていることか。七日目の夕方が、ちょうど正午に、わたしの魂に訪れたのか。おお、なんと幸福な。おお、なんと幸福な。わたしの魂は、今まさに幸福の一滴を飲んでいるのではないか」。
 ツアラトストラは、そのとき正に、この宇宙が、その永劫回帰における一回転を終えたことを感じていたのである。それは、待ちに待った、完成の瞬間であり、宇宙はこれ以後は、もはや何一つ新しいものを生ずることはなく、また何一つ新しいできごとは生起しない。世界は、かつて、昔に、ツアラトストラという人がいて、それは、今ここに身を横たえている彼とまったく同じ人間なのだが、時間的には、遙かな昔、もしかしたら太古の昔なのかもしれない、とにかく彼が、そこにどのような経緯で、どのようにして身を横たえたのかを知ろうと待っていたのであった。そして、ツアラトストラが今まさに身を横たえたその瞬間に、世界は一巡し、完成を見たのであった。
 なんというロマンチックな、しかしどことなく仏教的な趣をもつ観想ではないだろうか。しかし、ツアラトストラ自身は、そのことに関する確信を持っていたのであろうか。否、持ってはいない。なぜなら、彼は内在者だからであり、内在者はその確信を持つことを許されていなし、それゆえツアラトストラ自身もそれを望んでいない。それでは、彼の思想の本質は、何だろうか。それは、やはり宗教なのである。彼は、キリスト教に対抗する一つの宗教を作った。そして、彼の前では、キリスト教も一つの宗教なのである。
 「わたしの魂よ、いったい、おまえは何者なのだ。わが頭上の天空よ、いつ、永遠の泉よ。おまえ、晴朗にして身の毛もよだつ、正午の深淵よ。いつおまえは、わたしの魂をおまえのなかへ飲みもどすのか」、ツアラトストラは、かく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年8月26日 | トップページ | 2010年9月1日 »