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2010/08/26

 ツアラトストラがその乞食と分かれ、道を歩き始めると、彼の背後に一つの新しい声を聞いた。「とまれ!ツアラトストラよ!まあ待ってくれ!わたしなんだよ、あなたの影だ」。ツアラトストラが振り返って見ると、それはまるで幽霊のように薄っぺらで、黒っぽく、うつろで死にそこないのように見えた。「そなたは誰だ?なぜ、わたしの影と名乗るのか」とのツアラトストラの問いかけに、彼は、自分の素性を明かした。彼はこれまで、ツアラトストラの教えを聞くだけでなく、それを自ら勉強し、研究し、実践してきた。彼の師ツアラトストラのようになろうとして。そのように、彼のでき得る限りを尽くして真理を追い求め、自由を求めて邁進してきたが、未だに迷いの内にあるのであった。そればかりか、彼の内の迷いは、益々深くなるばかりで、自由を求めた彼は、益々不自由になるばかりであった。彼は言った、「あまりにも多くのことが、わたしには明らかになった。そして今では、もはや何事もわたしの関心をひかないのだ。どうしてわたしが今なおわたし自身を愛することができようか。わたしの好むままに生きるか、さもなければ、まったく生きないか、そうあることを最高の聖者もまた欲するのだ。しかし、悲しいかな、どうしてわたしが今なお持っていようか、好みというものを」。
 自由とは、何だろうか。何ものにも束縛されないことだろうか。それとも、ただ自分の望むことだけを行うことだろうか。もしそうなら、彼は彼自身の奴隷ではないだろうか。そして、それほどに不自由なこともまたとないのである。というのも、彼にとって彼自身ほど不可解なものはなく、鼻持ちならないものもまたないのだから。だからと言って、自分を憎み、自分を苦しめ、自分の憎むことを行ったところで、自由になれるというものでもない。キリスト教の教える自由とは、神に従うことにより自分から自由となり、神を愛し、神と一体となることにより神から自由となることである。それでは、ツアラトストラの場合の自由とはなんだろうか。それは、自分を超克することにより自分から自由となり、その超克した自分と一体化することにより、超克からも自由となることである。それが永劫回帰の思想なのである。
 ツアラトストラの影と名乗る男は、自分を超克する途上にあった。彼の求めているものが、自己超克の彼方にあると思ったのであった。しかし、彼はいつまでたってもそこへは到達できなかった。超克ということの延長では、そこへ到達できないのである。そこへ到達するためには、実に超克の途上で、超克した自分と一体化しなければならないのである。それは、まさに永劫回帰思想を受け入れるということであり、一つの信仰なのである。しかし、彼のように徹頭徹尾、覚めたアプローチをする者は、決してそこへは到達できない。そこへ到達するためには、実に「狂気」が必要なのである。ツアラトストラは、キリスト教の狂気を認識し、そこから逃避した。狂気のない世界、夢うつつでない世界、疑い得ない世界を求めたのであった。しかし、彼がそこに見つけたのは、やはり一つの「狂気」であった。そして、ツアラトストラはそこへ至るために、彼の影を、ニヒリズムを後ろへ投げ捨てたのであった。しかし今、それは彼を追ってきた。それは、常に彼を追ってくる。彼が生きている限り、彼に追いつき、彼の狂気への信仰を鈍らせようと誘惑するのである。そして、それから逃れるためには、彼は、自分が永遠に走り続けることを受け入れなければならない。それが永劫回帰思想であり、精神の墓場、実質的には牢獄なのである。
 「そなたの危険は小さいものではないのだ、そなた、自由精神よ、さすらい人よ。そなたにとって、今日は不吉な一日だった。この上なお、そなたに或るいっそう不吉な夕べが訪れて来ることのないように用心せよ。そなたのような定めなき身の上の者たちには、結局は牢獄でさえも至福に思われるのだ。囚われの身となった犯罪者たちが眠っているさまを、そなたはかつて見たことがあるか。彼らは安らかに眠っているのだ、彼らはその新しい安心を楽しんでいるのだ」、ツアラトストラは、かく語った。

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