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2010/08/25

みずから進んで乞食となった者

 ツアラトストラは、最も醜い人間のもとを立ち去ると身の凍える思いがし、また身の孤独を感じたが、歩いて行くにつれて、再び暖かみと情愛とが増してくるのを覚えた。すると、とある丘の上に雌牛たちが寄り添って立っていた。そして、その輪の中には、さながら山上の垂訓者のような者がいて、雌牛たちの心を開こうと説得しているところであった。ツアラトストラが彼に、何をしているのか訪ねると彼は言った、「わたしはかつて、自分の富と富める者たちとを恥じ、大きな富を投げ捨て、みずから進んで乞食となり、最も貧しい者たちのもとにのがれた。そして、彼らに自分の充実と自分の心とを贈ろうとしたが、彼らは私を受け入れなかった」と。キリストの生きていた時代には、貧しい者は、神を待ち望み、義の行われる世を待ち望んでいた。しかし、今は違う。今に至っては、貧しい者も神を求めてなどいない。彼らも、ただただ貪欲に、貧乏から解放されることだけを求めている。そして、また裕福な者も、いっそう富に執着し、私腹を肥やすことに邁進しているのである。そのような昨今において、彼の話を聞いてくれるのは、この雌牛たち、すなわち反雛と日向ぼっこに没頭している連中くらいしかいないのである。
 しかし、その「みずから進んで乞食となった者」は、自分に話しかけている人がツアラトストラだと知ると、驚愕して叫び、地面から跳び上がり、目に涙をみなぎらせて好意を示した。実は彼も、自分のこれまでの確信の頼りないことを認識し、新しい真理の到来を予感していたのである。ああしかし、彼は自らが予感し、期待するところの新しい真理には、ふさわしい者ではなかった。というのは、彼は追従からのみ学んできた者だったからである。彼は、キリスト教から教えられた通りのことを人にも伝えていた。彼にとっては、法則と言ったら、キリスト教の教理しかなかった。彼は、キリスト教が教えることを自分の人生で、直に体験してみることまではしなかった。もし、それをしたならば、彼は、キリスト教がそのように教えようが教えまいが、そのようなことには関係なく、自分の信念を自信を持って語り、自分でもそのように行動していたことだろう。しかし彼には、そのような生きた信仰体験がなかった。そこで、キリスト教の諸前提からはずれた者には、彼の言葉は何の説得力もなかったのである。
 現代にも、生きた信仰体験のないままに、出ていって福音を語る者がいる。そのような者は、ここに書かれている「みずから進んで乞食となった者」と同じである。彼の言葉は、社会で百戦錬磨している者たちには、何の説得力も持たないだろう。そして彼は、自分の言葉を聞かない者たちに対して、神の立場に立った裁きだけは一丁前に宣言するのである。
 ツアラトストラは、そんな彼の空虚さを見抜いて言った、「そなた、山上の垂訓者よ、そなたがこういう手きびしい言葉を用いるとき、そなたは自分を無理じいしている。いまだ、そなたの口も、目も、こういう手きびしさにふさわしいほど成長してはいないのだ」と。そして彼に、それらの雌牛たちと分かれるように忠告した。というのは、彼がそのような信仰的な慣れ合いの中に留まっている間は、彼はツアラトストラが説くことの意味、すなわち彼が予感していた新しい真理の意味が分からないからである。そして、雌牛たちと別れることは、彼にとってはつらいことであり、彼がそれに耐えられるためには、彼自身が今よりもっと成長しなければならないことをもツアラトストラは知っていた。しかし彼は、このツアラトストラの語った言葉を理解しなかった。そして彼は、ツアラトストラに言った、「いや、ほかならぬあなたこそ良い方であり、およそ雌牛などよりも、もっと良い方なのだ、おお、ツアラトストラよ!」。しかし、ツアラトストラは言った、「去れ、うせろ!そなた、腹立たしいおつい追従者よ!どうしてそなたは、こういう称賛とお追従の密とで、わたしの機嫌をそこねるのか?」。ツアラトストラは、かく語って、この情愛深い乞食に向かって自分の杖を振り上げた。

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