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2010/08/12

魔法使い

 ツアラトストラは、ついに窮境を訴える叫び声の主に遭遇した。その者は、道に打っ倒れていて、殆ど我を失わんばかりに、震えたり痙攣したりしながら悲痛の嘆きを叫び続けていた。それは、どことなくヨブの叫びのように絶望的な響きを帯びて、人間の弱さ、無力さ、愚かさと、そのような身分の人間をさえ裁き、罰を与える神への恨みと、それを受けるべき自らのやるせなさを告白していた。それを見たツアラトストラは、しばらくその者を気遣い、助け起こそうと労苦していたが、その者の悲痛な叫びの内容を聞き続けるうちに、急に血相を変えて、持っていた杖で彼に打って掛かった。その者は、これはたまらんとばかりに飛び起き、自分のしていたことは、すべて芝居であり、演技であることをツアラトストラに白状した。
 彼は、なぜそのような演技をしたのか。その意味は、何だったのだろうか。彼は自らを「精神の贖罪者」と称したが、ツアラトストラは、彼を「邪悪な魔法使い」と呼び捨てた。彼は、自分の力ではどうにもならないこの世の矛盾を赤裸々に訴えた。それは、彼の心の底から絞り出した苦悩の叫びに見えた。しかし、実はそれが彼の演技だったのである。そのようにして彼は、この世を生きることは、苦悩であり、矛盾であり、人間はそれに耐えつつ、その矛盾の中を生きて行かなければならないものなのだという「暗示」の魔法をすべての人に掛けていたのである。しかし、ツアラトストラには、それが偽りであることが分かった。というのは、彼は実に、善悪から自由となっていたからである。善悪から解放された者には、すでに根源的には、どんな悩みも起こらない。彼は、身の回りの些細なことや、生きる上でのつまらない不便に対しては、腹を立てたり、寂しがったりはする。しかし、「生きるとは何か」とか、その類の根源的な悩みには、もはや陥ることがないのである。というか、彼は、すでにそのような魔法から覚めた者となっていたのである。そして、彼はさらにその魔法使い自身の悲劇を指摘した。それは、その魔法使いがすべてを懐疑的に演技することにより、彼自身が懐疑そのものとなり、もはやまっとうに生きようとしても、そのように生きる彼そのものが懐疑となってしまうのである。それだけではなく、彼は自分を欺き、自ら陶酔の内に埋没することもできない。彼は、常に欺くものであり、彼以外は欺かれるものという、彼の造り出した状況から彼自身が逃れられなくなってしまったのである。しかし、ツアラトストラ自身は、そのようなことから完全に自由であった。彼は、騙されないように気を配ることさえしない。彼にとっては、騙されることは、何の損失でもないのである。彼はいつも、与えられた状況に対して、それが本当であっても偽りであっても、それに彼自身として、真実に立ち向かうだけなのである。
 私たち信仰者は、キリスト教の罪と購いの論理の中に、自らを置いてきた。それは、私たち自身が生きるところのこの世界の矛盾に対する、唯一の説明方法だと思い込んできた。しかしそれは、見方によっては、まどろっこしく、説明に困難を覚えるものではないだろうか。キリスト教は、すべての人を罪の中に閉じ込める。そして、律法により死の裁きを宣告する。しかし、その裁きを神自らが、ご自身の御子によって引き受け、それを海の底に沈めるように無きものとされるのである。キリスト教の神は、怒りの神であると同時に、愛の神である。それゆえ神は、人に下されるべき罰を、自らの愛する独り子の上に下し給うた。それは、ご自身が創造し、命の息を吹き込まれた人間を、妬むほどに愛しておられるからであると言う。このような一見矛盾に思えるほどに高等な「愛の教理」は、教会生活を続けるに従い、次第に要説明事項となり、初心者のころ可能だった、あの青空のように明るい伝道がいつしか困難となってくる。というのは、私たちは、まだ救われていない、多くの福音を待っている人にとっては、神の使者であり、御子の苦難をその身に負うべく、定められているからである。
 いったい私たちは、いつしか教理の魔法にかかってしまったのだろうか。何故に、キリスト信仰は、重苦しく、説明を要するものとなり果てたのであろうか。それは、この世への執着である。私たちが、自分の生まれながらの心に忠実に生きようとすれば、この世に執着せざるを得ない。そして、この世の矛盾から解放されようとすれば、ツアラトストラのように、善悪の河岸に至るより他に方法がない。しかし、もしこの世への執着から、すなわち生まれながらの心を捨てるならば。それは、おそらく一つの狂気であり得るだろうが、彼の前に、天国の希望がわき起こる。そして、これこそが、この天国の希望こそが、彼をして、もう一度、青空のように明るい人生を、そしてそこから出てくるところの伝道を可能とするのである。
 「この今日は賤民のものだ。そんなところにいて、何が偉大であり何が卑小であるかを今なお知っている者が、誰かおろうか。そんなところで偉大さを求めて成功した者が、誰かおろうか。阿呆だけだ。阿呆たちがそれに成功するのだ。そなたは偉大な人間たちを求めるのか、そなた、奇妙な阿呆よ。誰がそなたにそんなことを教えたのか。今日はそんなことをなすべき時であろうか。おお、そなた、邪悪な探究者よ、なにゆえに、そなたはわたしを試みるのか」、ツアラトストラは、かく語った。

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