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2010/08/11

ヒル

 かくてツアラトストラは、森また森を通り抜け、次々と沼地のそばを通り過ぎて、先へ、低い方へと歩いて行ったのだが、物思いに耽っていたため、うっかりして、横たわっていた一人の人間を踏みつけてしまった。その男はたいそう腹を立てたが、ツアラトストラと知ると、急に態度を変え、おとなしくなった。そこで、ツアラトストラも冷静になって、その者の横たわっていた事情を問い、二人の間に会話が始まった。それによると、その横たわっていた者は、露出した腕から血を流していたが、それは、10匹ものヒルが噛みついていたからに他ならなかった。ツアラトストラは、彼に訪ねた、「そなたは、ヒルの研究家なのであろうか。そしてそなたは、ヒルを徹底的に究明して、その最後の諸根底まで至ろうとするのか」と。彼は答えた、「いや、そのような大それたことは考えない。自分が大家として精通しているのは、ヒルの気持ちである」と。彼は、そのために、すなわちこの小さな、たわいのないヒルの気持ちを掴むために、自分の腕を提供し、実際に血を流していたのであった。そして彼は、その意図を熱烈に語った。「多くのことを生半可に知るよりは、何事も知らないほうがましだ。他人の考え通りに振舞って賢者であるよりも、独力で阿呆であるほうがましだ。わたしは、根底まで徹するのだ。たとえその根底が大きかろうと小さかろうと、それになんのことがあろうか。その根底が沼と呼ばれようと天と呼ばれようと、それになんのことがあろうか。片方の手のひらの広さの根底があれば、わたしにはそれで十分なのだ。それが本当に根底であり基盤でありさえすれば。片方の手のひらの広さの根底があれば、人はその上に立つことができるのだ。本当の良心的な認識態度にあっては、大きい小さいは問題ではない」と。
 私たち信仰者は、聖書を熱心に学ぶ。それは、信仰の先人が残したものである。しかし、その意味はまことに複雑である。聖書の語っていることの真意をつかむのは、実に至難の業なのである。しかし、教会の中の面々は、誰も彼も、信仰の内容については、自明な事として会話をしている。人の相談に乗るのも、計画を立てるのも、反省するときも、喜ぶ時も悲しむときも、すべて先人の教えに従って、その常識の中でのみ思考するのであり、それが「敬虔」と呼ばれているのである。いったい、本当にそれで良いのであろうか。一度だけの人生が、そのような半分理論的な思考によって流されて行ってしまって、本当に良いのだろうか。その延長として、「主イエスに従う」ということも、先人がこう従ったから、今回もその例に倣ってそのように行動すべきだとか。これは、信仰の原則から考えるとこうなるから、そのように捉えるべきであるとか。そんなことをしている内に、人生も半ばを過ぎ、活力も低下し、あとは安らかに天国に迎えられるのを待つだけの人生になってしまうのかも知れないのだから。
 しかし、主イエスは何んと言われたか。「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々十字架を負い、それからわたしに従って来なさい」と言われた。また、「わたしのために、父母、友、財産を捨てるものは、その百倍を受けるであろう」とも言われた。特にペテロに対しては、「わたしが来るまで彼が生きながらえていることをわたしが望むとしても、あなたには何の関わりがあるか。あなたはわたしに従いなさい」と言われたのである。これらのことから、私たちは、盲目的に主イエスに従うことを求められているのである。信仰の知識ではなく、主イエスとの人格的な交わりこそがすべてなのである。ちょうどあの男が、ヒルにその腕を噛ませ、血を流しながらヒルの気持ちを思い図っていたように、私たちも、日々の生活において、自分の犠牲を払い、そのことにより主イエスの気持ちを思い図る必要がある。兄弟姉妹がどうしているとか、信仰の先人がどうしたとか、そんなことは、すべて第二のことではないだろうか。主イエスは、言われる、「天国は激しく襲われている。そして、激しく襲う者がそれを奪い取っている」と。これは、戦いである。そして私たちは、こと天国については、これを人と譲り合って、お行儀の良い信仰を実践することは、決して美徳ではない。かつてダビデの周りに勇士たちがいて、われ先にと武勲を競った。これはまさに、天国の争奪戦であり、信仰の原則がここに記されているのである。
 「おお、そなた、奇妙な男よ、ここに見受けるところを、すなわちそなた自身を一見すれば、どんなに多くのことがわたしには分かることか。だが、おそらくわたしは、そなたの厳格な耳に、すべてを注ぎこんではならないであろう。さあ、では、わたしたちはここで別れよう。しかし、わたしは是非ともそなたに再開したいと思う。あそこの登り坂はわたしの洞窟へと通じている。今夜、そこで、そなたをわたしの新愛な客人としてもてなそう」、ツアラトストラは、かく語った。

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