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2010/08/10

王たちとの対話

 ツアラトストラが道を歩いて行くと、二人の王が雅やかないでたちで一匹のロバを追い立てながら歩いて来るのに出会った。ツアラトストラは、二人の王に対して、ロバが一匹しかいないのを奇妙に思った。しかも、どちらかの王がそのロバの背に乗っているわけでもなかったのである。彼らは言った、「わたしたちは王であるが、このわたしたちより高等な人間を見いだそうとして、そういう人間のところへこのロバを連れて行く。最高の人間が地上では同時にまた最高の支配者たるべきだからだ」と。
 彼らは、真の王、王の王を捜し求めていたのだった。しかも、自らは王でありながら。彼らは、実質的には王ではなく、王に祭り上げられている者たちであった。でもいったい誰によって、賤民によってである。弱さと欲望のごったまぜであるところの賤民が彼らを自分たちの利益追求のために王として祭り上げていたのである。
 さて、キリスト教は、信徒に対して、「あなたは、王であり、祭司である」という。そして、その根拠として、キリストがこの地上に、私たちと同じ姿で生まれ、その苦しみを通して、私たちを神の子の身分に購ってくれたからだと言う。しかし、そのように尊い恵みを受けた私たちの方が、従来と一向に変わらず、世の人と同じような生活のままであるとしたらどうだろう。教理を理解し、もっともらしい祈りはするが、その実、この世の利害に心を奪われているとしたら。私たちは、賤民として、自分の利益のためにキリストを王に祭り上げていることにならないだろうか。
 そうならないために、私たちは、キリストを真の王、王の王として畏れる必要がある。キリストは、この地上に下られて、私たちと同じ姿となられたのだが、その後には、栄光を受けて天に昇り、全能の神の右の座に着かれたのである。そしてかの日には、世のすべての人をそれぞれの行いによって裁くために、そしてすべての悪しき者に報復するために再び来られるのである。その目は、燃える火のよう、口からはもろ刃の剣が出ており、足は、炉で精錬されて光り輝く真鋳のようだと言う。
 私たちは、もう久しく、現代の牧師たちが語る、甘ったるい救い主のイメージに心を染められてしまって来た。しかし、キリストの愛とは、そのようなものではない。それは、実に焼き尽くす火である。私たちの煩悩を、弱さを、怠惰を、無知を、不従順をすべて、根こそぎに焼き尽くす火である。しかし、私たち現代の信仰者の心からは、この火が消えてしまっている。聖霊の火が消えてしまっているのである。そして、ただただ「待つこと」だけを信仰の美徳としているのである。教会という宮廷の中で、美徳を学び、お行儀の良い生活をしながら、天国がやって来るのを待っているのである。しかし、キリストは言われる、「天国は近づいた」と。また、「すでに畑は色づいている」、「死人を葬るのは、死人にまかせておけ」、「手を鋤にかけてから後ろを見る者は、私にふさわしくない」、「熱くも冷たくもなく、生温いので、あなたを口から吐き出そう」と。
 「それも仕方があるまい。何ほどのことがあろう。今日、宮廷にもまして、待つことをよりよく学べるところがあろうか。そして、王たちにとって自分たちのものとして残された徳は、そのすべてを挙げて、今日では、待つことができるというにつきるのではなかろうか」、ツアラトストラは、かく語った。

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