« 2010年7月28日 | トップページ | 2010年8月7日 »

2010/08/01

蜜の供犠

 かくて、再び幾年月がツアラトストラの魂の上を過ぎて行ったが、彼はそれを意に介さなかった。彼には、もはや何も待つものがなかった。そして、また同時に彼は、十分の期待を持って待っていた、あるものが訪れるのを。それは、一つの時であり、同時に一人の人でもある。キリスト信仰にあっては、そのようなことは、決して起こり得ない。むしろ、すべての喜ばしいことは、神の恵みにより生起する。しかし、すべてのキリスト教的な物事を彼が排除してしまった今となっては。それでも、そこに何か意味のあるものを期待することができるのだろうか。少なくとも、私たち信仰者は、それについて何も知らない。しかし「知らない」とは、不信仰な態度である。信仰者なら、「そこには、何も意味のある物事は存在しない」と言うだろう。しかし再び、それは信仰者としての観測であり、一般的な観測ではないと言えるのである。信仰者とは、信仰的な観測の他に、一般的な意味のある観測など存在しないと考える人のことである。いずれにしても、ツアラトストラは、自分の中からすべてのキリスト教的な要素を排除したところに、何か意味のあるもの、それもキリスト教がこれまでに提唱してきたすべての祝福にも増して意味のある何ものかを見出し、それがやがてやって来るという期待と確信に燃えていたのである。
 それは、いったいどんなものなのだろうか。まず言えることは、ツアラトストラは神ではなく、この世界の内的な存在であり、自分を含むこの世界に従属しているということである。そこで、彼はすべてを支配しているのではなく、またすべてを知っているのでもない。彼は、世界内的な存在として、従属しながら世界の中で暮らしている一つの実存に過ぎないのである。その彼が、期待を持って信じているものはどんなものなのか。彼自身も定かに知らずに、期待して待っているその対象とは、どのようなものなのか。それは、もしかしたら一つの神かもしれない。それなら彼は、キリスト教を否定し、別の新しい宗教に帰依したのであろうか。そうとも言えるかもしれない。しかし、そんなことは、ツアラトストラにとってはどうでも良いのである。彼は、自分の属する世界の内在的な実存であることを認識してはばからないのである。その不確実性の中に留まり、その虚無性の中にあえて留まり、その状態を、キリスト教の中にいることよりもまだしもましであると思うのである。それでは、彼がそのように信じる神とは、どのような神なのか。それは、善悪を超越した神、世界を良くしようなどとは考えない神、ありのままの現在の状態をすべて肯定する神である。彼は、キリスト教の神を否定したが、同時に他のすべての神をも否定したのではない。彼は、ただキリスト教のみを否定したのである。その他にどのようなものが実在しようとも、彼はそれを肯定する。ありのままに肯定するのである。そして、彼が期待し、確信するのは、この世界がそのままに、永遠に存在し続けるということである。もし、善悪という概念が作り物ならば、キリスト教が、いやキリスト教を考案した人間たちが考え出した作り話ということならば、それも考えられないこともないのである。そしてもしそうなら、この世界は、そのままに永遠に存在し続けるかもしれない。というのは、キリスト教以外のすべての宗教は、この世界の終わりを説いてはいないのである。すべての宗教は、霊魂の不滅を想定している。しかし、キリスト教だけが、裁きというものがあることを主張する。他の宗教は、みな輪廻転生をほのめかす。しかし、キリスト教は、永遠の刑罰を宣言するのである。それは、なんとむごたらしく、また悲惨な処置であろう。永遠に苦しめられるとは、しかも消えない火で。それも愛の神が。そのことに比べたら、ツアラトストラの待望する超人の思想、永劫回帰説が含まれ、究極的には虚無そのものであるような人為的な思想、その方がまだしもソフトで道理にかなっているように思われないだろうか。
 ここに諸宗教の分岐点がある。信仰から人の考えへの分岐点がある。道理で考えていったら、決してキリスト教信仰には辿りつかない。それは、狂気の信仰に思える。アブラハムにその一人子イサクを生けにえに捧げよと命令された神。それは、まさに狂気の神である。しかしそれでも、私たち信仰者は聖書の神を信じる。それは、人間的には狂気なのである。しかしそれでは、ツアラトストラの超人の思想は狂気ではないのか。それは、別の意味でまた狂気である。そこには、実に意味のあるものは何もないのだから。それは、狂気とも言えない。実に、無そのものなのである。キリスト教の神は、無から有を呼び出す神である。この神は、狂気から愛を呼び出されたのである。狂気とは、究極的には、無である。それは、キリスト教が作りだしたものではなく、ツアラトストラの住む世界にもすでにあったものである。そして、ツアラトストラは、そこから一歩も進んでいない。諸宗教は、その虚無から一歩も踏み出していないのである。しかし、聖書の神は、その無、すなわち狂気から愛、すなわち有を創造したのである。
 「かくて、まことに、わたしはわたしのこの永遠の運命に好意を寄せている。というのは、この運命は、わたしをせかさず、駆り立てず、悪ふざけやいたずらをするための猶予をわたしに与えるからであり、おかげで、わたしは今日、魚を捕らえるために、この高い山へ登るを得たからだ。かつて高い山々の上で魚を捕らえた人間がいたであろうか。そして、わたしがこの山上で望み行っていることが、たとえ愚行であるとしても、まだしもこのほうがましなのだ、わたしがあの下のほうで待望のあまり四角張り、顔面蒼白となるよりは。待望のあまり肩を怒らせて憤激する者となり、山々からごうごうと吹きすさぶ神聖なあらしとなり、焦燥にかられて、下のかた、もろもろの谷間に向かって、『聞け、さもないと、おまえたちを神の鞭で打つぞ』と叫ぶ者となるよりは」、ツアラトストラはかく語った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年7月28日 | トップページ | 2010年8月7日 »