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2010/07/28

七つの封印(あるいは、然りとアーメン、の歌)

 ツアラトストラは、ついに一つの境地にたどり着いた。それは、彼が長い間探求し、求め続けたものであった。それは、どんな境地なのか。まず、そこは、天国のようではなく、この地上そのままのところである。というのは、彼は、何か理想のようなものを夢見ていたのではなく、すべての幻影からの開放を目指していたからである。彼にとっては、「この地上は、かりそめのものであり、天国への途上である」というキリスト教的概念こそが虚構だったのである。それは、かつて神に創造されたアダムが、悪魔にそそのかされて、知るべきでないことを知ってしまった、という前提に立っている。そして、キリスト教世界、つまり彼の周りの世界は、すべてこの一つの特異な前提の上に成り立っていたのである。
 彼ツアラトストラは、この前提に立脚することができなかった。そして、この一つの特異な前提を受け入れることができなかったゆえに、彼は、彼と周りの世界がすでに受け入れていた、おびただしい既成概念や常識のすべてを捨て去らなければならなかったのである。そして、なぜ彼がそのような態度に固執したのかと言うと、それは、当時のキリスト者の多くが虚構の内に生きているように見えたからであった。
 しかし再び、当時のキリスト者が虚構の内に生きているように見えた訳を問うならば、そこに二つの理由が想定される。まず一つ目は、彼らのキリスト信仰の内に、ツアラトストラの目に虚構と写るものがあったということである。例えば、当時の教会が堕落した部分を抱えており、人々にキリストに対する従順をしっかりと教えていなかったのかもしれない。また、二つ目の理由としては、個人の信仰の堕落である。どんなときに信仰が堕落するかと言えば、社会が平和で、満ち足りているとき、キリストへの信仰なしにも充分暮らして行けるような状態にあるとき、その人がキリストから離され、信仰が堕落するということが起こり得るだろう。また、キリストから離されないまでも、自分の身の周りの豊かさが、何か自分の信仰の結果のように勘違いして、自分に充分な信仰があるようにうぬぼれてしまうということもあるだろう。そして、そのような状況が、ツアラトストラの目に偽善や虚構と写ったとしても驚くには当たらないことであろう。そして、今日の日本におけるキリスト教宣教も、物の満ち溢れる豊かな社会の中で、同じような躓きの可能性を抱えているのである。
 それではツアラトストラは、彼が到達したこの新天地で、何をしようというのだろうか。何をするということはない。彼は、そこを精一杯生きるのである。そう、もはやどのような幻影、虚構にも捕らわれることなく。彼は、初めて偏見なく、何の恐れもなく、物事を直視して生きる術を獲得したのである。もはや彼は、善悪を考える必要がない。それは、もはや克服された。時間がアダムの堕罪以前まで戻されたのである。彼は、何にも心置きなく、自分の内的衝動に従って生きることができる。たぶん彼は、人生を、喜びを、悲しみを、驚きを、決断を、後悔を、自戒を、倫理を、確信を、信念を、もう一度学び直すことになる。そう、彼の創造した新しいパラダイムの中で。それも、彼には何の苦にもならないだろう。何と言っても、彼の前には無限の時間があるのだから。
 「鳥の知恵はこう語る。見よ、上もなく、下もないのだ。奔放に、身を投げ出せ、かなたへ、はたまた後方へ、おまえ、軽い者よ。歌え。もはや語るな。一切の言葉は重い者たちのために作られたものではないか。軽い者にとっては、一切の言葉や虚偽ではないか。歌え。もはや語るな」ツアラトストラは、かく語った。

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