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2010/07/23

第二の舞踏歌

 ツアラトストラは、自らの生の苦悩を一つの舞踏歌に託して詠んだ。なんだって、「生の苦悩」だって?ツアラトストラは、ついに超人の思想に達し、すべてを悟ったのではなかったのか。彼が「永劫回帰」の真理を発見したとき、彼の心から、すべての悩みが消失したのではなかったのか。しかし実は、そうではなかった。彼は、真理を発見したが、生の悩みからは、開放されなかったのである。それでは、そのことをもってして、ツアラトストラが発見したのは、真理ではなかった、ということになるのだろうか。しかし、人をすべての悩みから開放してくれるような真理が、果たして存在するだろうか。否、それは、存在しないだろう。実に、キリスト教にしても、それをしてはくれないからである。というのは、主イエスご自身も、ゲッセマネの園で大いなる苦悩を味わわれたのではなかったか。また、かつての大使徒パウロも、獄中でキリストの苦しみのまだ足りないところを彼自身の心身をもって満たし、幾多の教会へ苦悩と共に、愛の手紙を書き送ったのではなかったか。そして、今日においても、キリストを愛し、心から彼に従い、御心を行うことを願うものは、自分の心身を十字架につけ、彼の苦難に与ろうと欲するのではないだろうか。
 それゆえ、自分の内に真理を持っていることは、彼をしてすべての苦悩から解放するものではない。返って、その苦悩に雄々しく立ち向かわせ、それを乗り越えさせるのである。それでは、ツアラトストラの苦悩とは、どのようなものであったのか。キリスト者との違いは、どのようなところに存するのだろうか。まず、ツアラトストラの苦悩は、完全なる内在者としての苦悩である。彼のアプローチは、この苦難の世界の中を生きることにより、その苦悩をもろに体験するところにある。彼には、どのような悟りもない。また、導きもない。彼は、実に裸一貫で、すべてに立ち向かわなければならない。彼は、実に自分の内から、歴史を通じて形成され、蓄積されてきた、キリスト教的なすべての精神的資産を自ら投げ捨てたのだから。そしてさらに、彼の住む世界において、精神的資産と言えば、それはまさに、ほとんどキリスト教的精神資産を意味するのである。なぜ彼は、そのような重荷を自らの身に負おうと思い立ったのであろうか。それは、思うに、すべての欺瞞、偽り、欺き等々からの逃避である。彼は、行く手にどのような苦難が待ち受けていようとも、どのような苦悩が訪れようと、どのような貧困、虚無、意味喪失、等々がそこにあろうとも、虚構の中に住むよりは、まだしも幸いだと考えたのだろう。そして、キリスト教こそは、その虚構の最たるものだと信じたのである。
 しかし、キリスト教は虚構であろうか。否、しかし、それを証明することはできない。それでは、ツアラトストラはなぜ、キリスト教を虚構と断定したのか。それは、彼の目に映るキリスト者の中に、彼が虚構を見出したからであろう。キリスト教こそ真理であると断定する者、どのような論破にも屈せず、理由もなく、キリスト教こそは真理であると豪語する者。キリスト教を信じれば幸福になり、信じなければ地獄行きだと豪語するもの。キリストを信じた自分は、真理を知っており、信じていない者は何も知らないと高慢にも主張するもの。キリストの救いを受け入れない者は、無知であり、福音の説教だけがその人を救いに導く方法だと思い込んでいる者。この世界にどのような美しいこと、立派に見えること、尊敬に値することがあろうとも、キリストを信じていることゆえに、自分がそれらの人よりも真理に近いと疑わない者。そのような者たちの中に、ツアラトストラは、虚構を見出したのであろう。そして、彼は、彼ら高慢者のゆえに、彼らとは関係のない、キリスト教的精神資産のすべてを自らの外へ投げ捨てる決心をした。それがもたらす危険を承知の上で。
 ああ、今日においても、キリストの救いを受け入れない人々の中に、あのツアラトストラのような者があるとしたら。生について、誰よりも真剣に考え、生を愛し、誰にも頼らず、どのような法則にも真理にも頼らず、独力で自分の生を愛そうと志したものが、キリスト者の内に見出した虚構のゆえに、尊いキリストの救いを受け入れることを拒んでいるとしたら。
 「かくて、わたしたちは互いに相手を見つめ、折しも涼しい夕べが広がりつつある緑の牧草地を見やって、共々に泣いた。だが、そのとき、わたしにとって生は、かつて一切のわたしの知恵がいとしかったにもまして、いとしかった」。ツアラトストラは、かく語った。

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大いなる憧憬について

 「おお、わが魂よ、わたしはおまえを一切の片隅から救済した。わたしはおまえからほこりとクモどもと薄明とを掃い落とした。おお、わが魂よ、わたしはおまえから、一切の服従、膝を屈すること、『主よ』と言うことを、取り除いた。わたしはおまえ自身に、『窮境の転回』および『運命』という名を与えた」とツアラトストラは言う。
 『自らを救済する』、この極度に非キリスト教的な事業を彼は企て、それを成し遂げたと宣言するのである。それは、いかにして行われたのか。それは、自分の内にあるキリスト教的な要素をすべて捨て去り、それが何をもたらすかを見ることによったのである。しかしそれは、単なる想定や洞察、実験などではない。彼は、真剣にそれを行い、その結果、心身にダメージを受け、7日間横になったまま、起きあがることができなかった。それほどキリスト教は、彼の中に浸透していたのである。
 「ニーチェは、キリスト教を知らないとか誤解している」と考える人がいるかもしれない。それは一面では当たっていると思う。キリスト教を拒む人は、それを誤解しているのだろう。しかし、自分の内のキリスト教的要素を完全に排除できるためには、それらを詳細に認識している必要がある。それはむしろ、誤解していてできることではないだろう。彼は、認識という面では、クリスチャンよりも良くキリスト教を理解していると言えるかも知れないのである。
 それにしても、「自分を救済する」とは、いかなることであろうか。それは、彼の場合、「自分を発見する」あるいは「自分を知る」ということに近い。それも「永劫回帰」ということを知ることなのであり、その証拠が、キリスト教的なものを全て排除した結果、依然として自己が存在しているということなのである。彼は考える、「もし、キリスト教が真理なら、それなしに人は生きられないはずである。しかし私は、それらすべてを排除したのに依然として生きている。それゆえ、この世界にキリスト教とは関係を持たない、自己完結的な無限のシステムが存在するのであり、それは、永遠に回帰し続けるのである」と。それは、どのようなシステムなのだろうか。まず、そこには、「善悪」が存在しない。「善悪」は、キリスト教が作り出したものだからである。同様に、「前進や発展」ということもない。今以上に良くなることも、また悪くなることもないのである。そこにあるのは、永遠に同じことの繰り返しだけである。自分自身は、また人間はそれを認識しないかもしれないが、すべてのものは、このシステムの中で永遠に回帰し続けるのである。この恐ろしい発見に至った者、すなわちツアラトストラの魂は、そのことをどう受け取るだろうか。「教えてくれてありがとう」と言うだろうか。彼にとって、時間は永遠に止まってしまったのだ。彼は、すべてを自ら無に帰したのである。そして、彼は微笑する。というのは、彼はすべてのものを救済したのである。それらが「善」という概念で、互いに評価し合うことから。また、「悪」という概念で、互いに傷つけあうことから。そこには、不幸も悲しみもない。しかしまた、勝利も喜びもないのである。
そのような者たちをキリスト教は、責めるべきだろうか。といのは、これは、極度に非キリスト教的なものに見えるからである。しかし、今日のキリスト教の中に平等を持ちこむ者、平等、公平、同等等々を持ち込み、聖書とは似て非なる、新しい道徳規準を打ち立てようとする者は、実は彼ツアラトストラと同じ考えなのである。
 「おお、わが魂よ、わたしはおまえに一切を与えた、かくて、わたしの両手は、おまえのためにすっかり空になってしまった。ところが、どうだ。今やおまえは、微笑しながら、憂愁に充ちて、わたしに言う。『わたしたちのうちで、どちらが感謝すべきであろうか。与える者が感謝すべきではないか、受け取る者が受け取ったことを。贈与することは必須のことではないのか。受け取ることは、なさけをかけることではないのか。』おお、わが魂よ。わたしは、おまえの憂愁が漏らす微笑を、理解する。おまえのありあまるほどの豊かさそのものが、今やあこがれの手を差し伸ばしているのだ。わたしがおまえに歌えと命じたからには、さあ語れ、語れ、今やわたしたちのうちで、どちらが、感謝すべきであろうか。だが、なおいっそうよいことには、おまえの謝意をこめて、わたしに歌って聞かせよ、歌って聞かせよ、おお、わが魂よ。そして、わたしをして感謝せしめよ」、ツアラトストラは、かく語った。

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