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2010/07/22

回復しつつあるもの

 ツアラトストラは、ついに超人の思想にたどり着こうとしていた。それは、まさに超人という名にふさわしい不死なる思想である。それは、死の恐怖に取り憑かれていた人々をそこから開放し、自由に主体的に生きることを得させるためのものであった。しかし、思想というものは、また何と幻影的なものだろう。それ自体は、現実を変える力を持っていない。しかし、それが人々の心を突き動かすなら、それが歴史に一つの刻印を残すことになる。しかし、それも所詮一つの刻印に過ぎない。というのも、それらの多くのものは、時間と共に、何事もなかったように忘れ去られてしまうからである。しかし、非常に希には、持続力を持つものがあり、それは、宗教やイデオロギーという形で、後生に伝えられて行く。その中に、キリスト教もあるのだが、結局、それらのどれが真理かということなると、それを公に証明する方法はない。そこで、ツアラトストラの超人の思想も、一般的には、それがもし一つの持続力を持つなら、真理の候補として、存在意義を与えられるのである。
 しかし、はたして真理とは、そのようなものだろうか。いくつかのそれらしい候補の中から、競争やコンテストのように、そのトータルスコアによって決定されるようなものだろうか。この世的な見方からは、そう考えるしかないように思える。しかし、実際はそうではないだろう。真理は、競争で決定するようなものではない。その決定基準は、ただ一つ。それが真理かどうかということである。なぜなら、真理はこの世界において決定されるようなものではなく、すでに永遠の昔に決定されているものだからである。そして、真理自身は、自分が真理であることを知っている。そうでなければ、どうして真理たり得ようか。しかし、ツアラトストラの超人の思想は、そのようなものとは異なる。彼は、自分が真理であるという確信を未だに持っていないように見える。そのようなものが、果たして真理であり得ようか。この世界の内在者としての人間の思考の限界がここにある。もし彼がこの限界を突破し、無限なる思想(真理と言おうか)に到達しようようと思うなら、彼は自分の理性をも突破する必要がある。なぜなら、彼の理性は、この世界の中で培われた、内在者としての理性だからである。しかしそれゆえ、それを突破したものは、もはや彼の理解を越えている。それは、人間の常識を逸脱した、突飛な思想「永劫回帰」であり、彼は自分の理性を越えてそれを熱望するしかない。つまり、それはもはや、いかなる哲学でもなく、一つの「狂信」でさえあり得るのである。しかしそれでは、キリスト教はどうであろうか。しっかりとした理性の上に立っているであろうか。否、キリスト教も、それがこの世界の外から与えられたという点で、人間の理性を越えており、一つの「狂信」であり得るのである。キリスト教が理性的だと思っている人、それを理性的に把握し得ると思っている人は、それを一度も信じたことのない人なのである。
 「この太陽と共に、この大地と共に、このワシと共に、このヘビと共に、わたしは回帰する、或る新しい生、あるいはよりよき生、あるいは似通った生へ、回帰するのではない。この同じ生、同一の生へ、最大のことにおいても最小のことにおいても同一の生へ、わたしは永遠に回帰するのだ、再び一切の諸事物の永遠回帰を教えるために、再び大地と人間との大いなる正午についてのわたしの言葉を語るために、再び人間たちに超人を告知するために。わたしはわたしの言葉を語った。わたしはわたしの言葉によって砕ける。そうあることを、わたしの永遠の運命が欲するのだ、告知者として、わたたしは破滅するのだ。今や、没落して行く者が自分自身を祝福すべき時が来た。こうしてわたしの没落は終わる」ツアラトストラは、かく語った。

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