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2010/07/16

新旧の諸板について

 へびはアダムに「これを食べると、あなたがたは神のように善悪を知るようになる」と言った。しかし、その「善悪」というものは、人間よりも上位にあるものであり、実にアダム自身を裁くためのものでさえあったのである。それゆえ彼は、善悪を知ったことにより、その奴隷となったのであった。この罪への隷属状態から、人はいつ、どのようにして開放されたのだろうか。「いつ」ということについては、キリスト教によれば、創世記において、神がへびに対して、「彼はおまえの頭を砕く」と言われており、それが成就した日、すなわち、イエス・キリストが十字架に死んで三日目に復活したのがそのときなのである。しかし、実はこれでは、正確な答えになっていない。というのは、人が罪から開放されるのは、実際は、人一人一人がイエス・キリストを救い主と信じた後なのである。
 しかし、ここにまだやっかいな問題が残されている。それは、聖化という過程が存在することである。つまり、一言で言えば、人はキリストを信じても、すぐには罪から開放されないのである。この聖化という概念には、教派間でかなりの違いがあるようだが、それでも共通しているのは、この世界に生きている間は、人が罪から完全に開放されることはないということである。人がキリストを信じる根拠は、罪の赦しと天国への希望である。
 「善悪と呼ばれる一つの古い妄想がある。おお、わたしの兄弟たちよ、星々と未来については、これまでただ妄想されただけで、知られたことはなかった。それゆえ、善悪については、これまでただ妄想されただけで、知られたことはなかったのだ」とツアラトストラは言う。
 果たして私たちは、本当に善悪を知っていたのか。ある意味では、それを知っていた。しかし、へびが言ったようにではなかった。彼は、嘘つきだからである。私たちは、確かに善悪を知っていた。しかし、「神のように知る」、つまりそれを超越することは、できなかったのである。それならば、再び問おう。私たちは、善悪をいつ完全に知った(超越した)のであろうか。否、まだ完全に知ってはいないのである。それはおそらく、神のみ旨である。神は、人が善悪を完全に知ることを許されないのだ。それは、私たちが知識によってではなく、信仰によって生きるためである。世の人は、知識を求める、しかし、キリスト者は、信仰によって生きるのである。だから私たちは、さも知っているような態度をしないようにするべきである。返って「私たちは、信じる」と言うべきである。たとえその意味が、世の人には、決して理解できないとしても。
 ツアラトストラは、信仰を否定し、信仰に似たものをつかんだ。あたかもそれを信じるかのように。それが「超人」の思想である。彼は、自らそれを生きることにより、それを実証しようとした。そして、実際に彼は、それを生き始めた。彼は、人が信仰なしに生き得ることを実証した。しかし、そのような生が何を意味するのかということは、未だ知ることができなかった。そういう意味で、彼にも「信じる」ということが不可欠であった。ちょうどキリスト者が未だ善悪について完全に知っておらず、義なる人キリストを信じることにより生きているように、ツアラトストラも、未だ人生の意味を知らず、理想的な人間としての超人を希求して生きていたのである。
 「人間は、超克されなくてはならないところの何ものかである。人間の未来全体にとっての最大の危険は、どういう者たちのもとにあるのか。それは、善にして義なる者たちのもとにあるのではないか。おお、意志よ、一切の窮境の転回よ、おまえ、わたしの必然性よ、一つの大いなる勝利のために、わたしを取っておけ」ツアラトストラは、かく語った。

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