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2010/07/14

重力の精について

 昔から真理の探求には、大きく2つの立場があった。すべてのものに共通の真理があるとする普遍主義の立場と、各個人ごとに異なる真理がある、すなわち個人こそが真理であるとする実存主義の立場である。日本では、多くの人が普遍主義の立場をとるようであるが、それは、戦後の合理的な教育方針の結果であろう。それに対して、実存主義の立場も、決して曖昧なものではなく、実際この世界に、自分以外の人が存在することを証明するのは、困難なのである。つまり、この二つの立場は、決着がつかないまま、平行しているのであり、ツアラトストラは後者、実存主義の立場を取る。この立場は、自分の中にこそ全ての真理が存在しているとするのであり、彼はそれを見つけるために山に隠ったのであった。そして、前者の普遍主義の立場を彼は、「重力の精」と呼ぶのである。
 それではキリスト者は、どうであろうか。私にはキリスト者が、上記の二つの立場の混合のように思われるのである。まず、この世界の事柄にあっては、律法という普遍的なルールがあり、キリストという万人のための救い主がおられる。また、聖書という共通の歴史と概念体系があり、罪という共通の忌むべきものがある。しかし、天的な事柄においては、事態は異なっている。「風は思いのままに吹く」と言われる。すべての人は、それぞれに精神という王国を持ち、そこを治めるのは主イエスである。天国は、すべての人が襲い、奪い取るものとされる。また、審判の日には、人はそれぞれの行いによって裁かれる。そのとき、開かれる中には律法の書もあるであろうが、決定的なのは、救われる人の名を記した、いのちの書なのである。
 それゆえ、普遍主義と実存主義の関係は、信仰を持たない者には、矛盾としか写らない。それらは、どちらかが正しく、どちらかが間違っているように思われる。しかしもともと、この世界とその中に住み、その世界を認識しようとしている人間の心という二つの正反対の立場を一つの真理、それも人が考えた真理で説明しようとすること自体が無理なのである。そして、この世界では、相分かれているそれら二つの真理は、天国においては一つの真理となるだろう。このことは、信仰を持ってしなければ、決して受け取ることができない。それゆえ、信仰のない人は、天国に入れないのである。
 天国では、私たちは、真に私たち自身となる。強制されるのではなく、始めからそうであったものになるのである。そしてその、そうなるべきものの中に、ある普遍的なものがある。それは、普遍的な真理であり、主イエスご自身である。真理は、法則ではなく、主イエスというお方なのであり、そのお方の前で、私たちは、一つの永遠なる真理、輝く星となるのである。
 「すべてわたしの歩みは、一個の試みにして問いであった。そしてまことに、人はまた、こういう問いに答えることを学ばなくてはならないのだ。だが、これがわたしの趣味である。よい趣味でも、わるい趣味でもなくて、わたしの趣味なのだ。この趣味をわたしはもはや恥じも隠しもしない。これが現にわたしの道である、きみたちの道はどこにあるか?と、わたしは、わたしに道を尋ねた者たちに答えた。というのは、道一般は、存在しないからだ」、ツアラトストラはかく語った。

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三つの悪について

 「わたしは柔和でへりくだった者であるから、わたしに聞き、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたの魂に休息が与えられる」と主イエスは言われた。しかし一般的には、「へりくだった者」は、このようには言わないだろう。それでは、主イエスはへりくだってはいないのか。そうではなく、私たちの観念の方が不自由なのである。むしろ私たちの認識は、ある偏狭な道徳基準の上に形成されていると言えるかもしれないのである。それは「能ある鷹は爪を隠す」というような文脈であり、人の持っている能力とか性質が、彼自身の所有であるという前提に立っている。それゆえ、それらを自ら誇ることは、醜いこととされる。しかし、それらの能力や性質が神から与えられているとしたらどうだろう。それを誇ることは、それを下さった神を誇ることになるのではないだろうか。そして、そのことが自明とされる場合には、それらの賜物が神から来たことさえあえて言及する必要がないのである。このことで他人がどう考えようと、神への姿勢には、変わりがないからである。そして、それが主イエスの取られた態度だったのである。
 同様に、何かを求めることが自分のためならば、その欲望は、キリスト教的には、良くないこととされる。しかし、神の働きのために求めるのなら、それは、良い、悪いということをすでに越えているのである。また、人の上に権力を奮うことについても、神の教会の秩序の中や、純粋に神の栄光のためには、それにふさわしい権威が神によって建てられるのである。「この世において三つのこの上なく呪われたものは何であるか?この三つのものをわたしは秤にかけようと思う。肉欲、支配欲、我欲、この三つのものが、従来、この上なく呪われ、最もひどい評判を、それも嘘の評判を立てられた、この三つのものをわたしは人間的に良いものとして考量しようと思う」とツアラトストラは言う。
 しかし、私たちの認識は、上の三つだけでなく、実にすべての領域で新たにされなければならないのだ。たとえば、「王」という概念について、また「戦い」、「愛」、「誉れ」、「主権」、「従順」、「信仰
」、等々についてである。どのようにして新たにされるのだろうか。聖書に、「一人の王があなたのところに来られる」とある。そのお方が、あなたの心に来られるとき、彼を通してあなたは知る。「王」とは、何であるか。「愛」とは何であるか。「誉れ」とは、何であったかを。また、「主権」とは、どんなものか。「従順」とはどうすることか。「信仰」とは何なのかを。あなたはそのとき、本当に知ることになる。そして、あなたという存在は、神により神聖なものに造り変えられる。そのとき、あなたは、あなたを縛っていたものから開放され、あなたのすべての肉欲も支配欲も我欲も、それらすべてが神聖なものとなるのである。
 「しかし、これら一切の者たちに、今や昼が、変化が、斬首刀が、大いなる正午が、やって来る。そのとき、かならずや多くのことが明らかになるであろう。そして、自我を健全にして神聖なものと宣言し、我欲を至福のものと宣言する者、まことに、この者はまた、一人の予言者として、自分の知っていることを語るのだ。見よ!それはやって来る。それは近づいている。大いなる正午は!」、ツアラトストラはかく語った。

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